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 南十字星のページで紹介したおやじの写真に写っている映写機をネットで探していたのですが、素人の私ではなかなか辿り着かず、ついに本日 (2012.5.15) 見つけた「シネマ映像館」さんへ HP内の「『19・コマ』感想を送ってください」から問い合わせをしてみました。

 ご多忙のところ早速ご指導を頂き感謝しております。
 さて、HP管理人さんである「ITOH AUDIO」の伊東さんによると、この映写機は「ミナシキ16mm映写機」であることが判明致しました。しかもおよそ50年前にご本人が所有していたとのことでした。やはり、その道の人に尋ねるのが一番早いですね。
 私にはてっきり高さ調整の為に使っているように見えていた映写機を載せている台も、なんと真空管アンプだと解りました。この映写機はアンプが分離されているのだそうです。お恥ずかしい限りであり、そう聞くとどんな音だったのか聞いてみたくなりますよね。
 実際、真空管アンプの上に映写機を載せてあれこれセッティングするのは大変だったようです。そこで伊東さんご自身が真空管アンプを使わなくてもいいように、映写機本体に小型アンプを組み込むという改良を施したそうです。
 既に販売している改良型なのですが、持ち主が下さったと言う写真も送って頂きました。

おやじメモより

 赤道際の1ページ 

 姉=主役の自分

 父=東京の三枝さん
 妹=香川県の香川さん
 外=一同

 劇までやっていたとは、、、どんな劇だったのでしょう。
 写真が小さいのでスキャンしてもハッキリしませんでした。
 動画の記録は残ってないでしょうね。今なら携帯電話でも録れますが、この時代はビデオカ

メラもない時代です。8mmフイルムカメラだって手に入らなかったかもしれい昭和29年第 8 次南氷洋捕鯨復路での赤道際です

 俺は映写機だ!みたいなカッコ良さがありますよね。
 そして伊東さんは2009年4月、NHKの教養バラエティー番組『熱中時間 忙中"趣味"あり』で8ミリフィルム熱中人 と紹介された「熱中人」でした。
 今でも映写機の改良をしておられるので、相談されたい方は是非こちらへ!

 そもそも映画は19世紀前半に完成されていた写真技術を発展させたもので、様々な研究者がしのぎを削っていた中、1893年(明治26年)にアメリカのトー

マス・エジソンが自動映像販売機(映写機)キネトスコープをシカゴ万国博覧会で一般公開したことから始まりました。

 ところがこのエジソンのキネトスコープは、まだ箱の中を覗いて観る方法で、スクリーンに映し出すものではありませんでした。それでも翌年の1894年4月14日には、ニューヨークのブロードウェイ1155番地に世界初の映画館が設置されたのです。
 このエジソンが発明したキネトスコープを日本で最初に上映したのは神戸の神港倶楽部で、1896年(明治29年)11月25日から12月1日までの間でした。
 きっと裕福な人達がキネトスコープを覗いていたのでしょうね。
 日本の映画の日が12月28日から12月1日に変更されたのは、この日付に因むためと云われます。
 因みに神港倶楽部は、現在の神戸市にあるメリケン

パーク(兵庫県神戸市中央区波止場町2)の中に「メリケ

ンシアターの碑」として残されています。

 諸説有るものの、1894年。 パリでエジソンが開発した キネトスコープを見たアントワーヌは、即座に息子達であるリュミエール兄弟に研究を命じ、キネトスコープの改良型シネマトグラフを開発しました。
 この開発で映画はスクリーンに投影されるようになり、多くの人が同時に楽しめるようになったのです。
 上映された作品は、撮影場所 : フランスのリオン、製作・監督 : ルイ・リュミエールの『工場の出口』(原題: La Sortie de l'usine Lumière à Lyon)という世界初の実写映画で、50秒ほどのモノクロ無声ドキュメンタリー映画でした。

 

 リュミエールが発明したスクリーン式の「シネマトグラフ」は1897年 (明治 30年)、大阪の南地演舞場や京都で披露されています。

赤道際で「劇」 ミナシキ16mm映写機

それでは、世界初の映画をパソコンやスマホで御覧下さい。「工場の出口(50秒ほど)」+続編付きです。

 工場から出てきた人達が、なぜ上流階級の服を着ているのかですって?
 それはわかりませんね^^

フィルムの巾

 1881年(明治14年)、農民ピーター・ヒューストンロールが世界初のロールフィルム写真機を

発明し、弟デイヴィッド・ヘンダーソン・ヒューストンが特許登録を行なった。サイズは小型

カメラ用の127フィルム(幅46mmのロールフィルム)と828フィルム(35mm幅のロールフィ

)、中判カメラ用の120フィルム(60mm)と116フィルム(70mm)であった。

 アメリカの実業家であり発明家でもあったジョージ・イーストマンが1884年(明治17年)に硝

子から乳剤を塗った紙を利用したロールフィルムを開発したものの、ロールフィルムの特許は

すでにヒューストンロールと弟デイヴィッドに取られていた。

 デイヴィッドは1886年にこれを改良更新し、その特許権をすべて、すでに1888年にボックスカメラ(英語版)にこの発明を使用していたコダックの創立者ジョージ・イーストマンに対して、翌1889年に5,000ドルで売却している。

 1888年(明治21年)9月4日、ジョージ・イーストマンはフィルム・カメラの特許を取得して「あなたはシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります("You press the button, we do the rest")」の宣伝文句のもと、カメラ一台で100枚写真が撮れる世界初のロールフィルムカメラ「No.1コダック」を発売した。今で言う「写るんです」に近い方法ですが、カメラ本体は使い捨てではなく立派な作りで、写真を撮り終わったカメラを現像に出すと写真と一緒に新しいフイルムを装填してお客様の手に戻すというシステムでした。(近頃(2015)はすっかりスマホに押され「写るんです」も使われなくなった)

 
 1892年、映画の発明家であるフランス人のル・プランス、レオン・ボウリー、リュミエール兄弟、ジョルジュ・メリエス、フランス系スコットランド人のウィリアム・K・L・ディクソン、アメリカ人のトーマス・エジソンなどがイーストマンから供給されたフィルムを使っていた事から、映画発明の基礎技術として確立し、
1909年に35mmフィルムが国際規格に認定された35mmは世界中ほぼ全ての商業的な映画館で上映できる唯一の規格となっている。

 16mmフイルムが登場したのは1923年 (大正12年)。これも米国のコダック社の企画でした。
 そして、1932年 (昭和7年)。コダック社は16mmフィルムのまま往復8mmづつ使って撮影し(シネコダック8、後のダブル8)、現像後に半裁するという方法を用いてカメラを開発しました。これが8mmフイルムの始まりとなり、後に様々な形式が登場することになる。

 

日本の8mmカメラ

 日本国内では1955年(昭和30年)、国産初の8㎜カメラ「Cinemax 8」が瓜生精機から発売されました。
 また同年にエルモから「エルモ8A」が発売され、昭和30年は日本の8mmカメラ史の幕開けとなりました。興味深い点は、この時代はまだ電動モーターではなくスプリング式だったことですね。時計のような精密機械だったという訳です。
 8mmカメラはその後様々な改良が施され、1980年代後半にビデオカメラが登場するまで、動画を記録する道具として君臨していた。

 

←Cine 8-T
1956年(昭和31年) 11月発売
48,000円
国産3機種目の製品でありキヤノン初の8mmシネカメラで、通産省のグッドデザイン賞(わが国Gマーク)の第1号に選定される栄誉を受けた。
キャノン カメラ館より

Cinemax 8

エルモ8-A
ゼンマイ式8㎜カメラ館より

初代クラウン

(福山自動車時計博物館所蔵)Taisyo 
 日本ではトヨタ自動車が昭和30年元旦にクラウンを発表

左から
135フィルムのパトローネ
127フィルム
120フィルム
右手前は127フィルムのスプール

 という事は、昭和29年の復路での赤道際の記録は、少なくても国産カメラで撮影されていることはない、ということですね。

 さて、母船では赤道際を三日間大いに楽しんでいるようですが、キャッチャーボートではどうだったのか。第21次南氷洋捕鯨での第十八関丸、弘井武志チュンジャン(機関長:チエンジャー)の日誌を覗いてみましょう。

昭和42年3月24日(金)[ 天気B(快晴)、風力2(風速 1.6-3.3 m/s)]

 午後11時30分に赤道通過。これより北半球に入る。夕食時に赤道祭という程の事でもないが、鯛の尾頭付きにお酒一升、暑い

 時の日本酒は余り有難くもなし。妻より昨日の返電来る。迎えに来るとの事。

昭和42年3月25日(土)[ 天気B(快晴)、風力3(風速 3.4-5.4 m/s)]

 相変わらず暑い。ファンの風を体に当てて寝るせいか、体がだるい。全く局長には困ったものだ。昼間から一杯やりましょう

 と呼びに来たが、行かなかったので一人で呑んだらしい。午後8時にまた呼びに来たが行かなかったら、又々ビンを掲げて部

 屋に来る。仕方なく相手になれば、切りがなく全く参った。こんなに節度がない酒呑みとは知らなかった。

昭和42年3月26日(日)[ 天気B(快晴)、風力3、航速16.31浬/時]

 昨夜は局長から逃げ回って、中途半端に飲んで反って寝付きが悪く、また一人でウイスキーを飲み 12時頃に寝る。今日は体

 調良好なれども、9時過ぎまで眠ったので朝食抜き。汐流(潮流)が良いのか16浬以上も出ている。

 鯛の尾頭付きから始まって、ほぼ呑みっ放しの様ですね。赤道際で局長も酒にのまれたかな。時々母船の赤道祭に参加する事もあったようです。

 浬(かいり:海里)は定義が沢山あるので、将来統一されるであろう国際海里(浬)で計算してみましょう。浬は地球上の緯度1分に相当する長さです。

 国際海里 (metric nautical mile) = 正確に 1852メートル。ベッセル楕円体の極と赤道の距離の90×60分の1。1度よりも細かい緯度は、1度=60分=3600秒と分割して表現する(0.1度は6分となる)。

 航速16.31浬/時は、16.31×1.852km=30.20612 時速 30.20612kmですから原動機付き自転車と同じですね。

昭和42年3月28日(火)[ 天気C(薄雲)、風力3、航速16.33浬/時]

 少々風が出てきた様だが、相変わらす汐に乗って今日も16.33浬。正午よりr p m170に下げる。毎日飽きもせず読書が出切るものだ。我ながら感心する。『徳川家康』14 巻目に掛かる。午後8時過ぎに麻雀一荘終わり、局長と2人で軽く呑み午後11時に眠る。

 毎分170回転まで下げた。自動車ならエンストですね。ところが捕鯨船に求められるエンジン性能は低速時の安定性なのだそうです。鯨を追いながらコントロースしやすいエンジンでないと仕事がしにくいというわけですね。

 第十八関丸より一回り大きい第二十五利丸のエンジンは、出力:3,600馬力、毎分225回転です。それを思えば毎分170回転はそれほど低い回転数ではありませんね。さらに300馬力の補助エンジンが二機搭載されています。

マルハOBの山田氏によると、横浜の工場に母船から降ろした16ミリがあって、工場見学のユーザーに南鯨の映画を見せるのが、我々新人の仕事でした。お陰で16ミリ映写機は目をつぶっても操作できるほどになりました。当時盛んになった春闘ストライキのときはこの映写機で寅さんシリーズを上映していました。

「寅さん」まで上映していたとは。山田洋次原作・監督、渥美清主演の「男はつらいよ」ですね。

 この作品は映画の前にテレビがあったんですよね。

 映画シリーズはリアルタイムで観てました。

「それを言っちゃあお仕舞いよ」

「労働者諸君!」

「結構毛だらけ猫灰だらけ」

「今夜はこのへんでお開きってことにするか」

 なんてね。

二代目日新丸 入港式準備完了

ペンギン

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