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東京見物 皇居

おやじメモより

 宮?に拝して一路吾家へ 古川さんと小生 撮影杉田氏 (5年生)

 5年生ですから昭和31年春の皇居でしょう。

 宮?は宮城と書いていたと思われます。
 宮城(きゅうじょう)とは、明治21年(1888年)に明治宮殿が落成した10月27日以後から呼ばれるようになりました。
 皇居と呼ばれるようになったのは、昭和23年(1948年)7月1日に宮城の名称が廃止されてからでした。

 そういう意味では、昭和31年は皇居と呼ばれて8年目ですが、日新丸船団の中ではまだ宮城だったのかもしれません。

 東京見物といえば、ミッチーこと三橋美智也さんが歌っていたのが昭和32年 (1957年)のことでしたから、その1年前の写真ですね。撮影後、上野駅へ移動したでしょう。

 

二重橋はもうない

 この写真を見て、おやじ達は二重橋の前で記念写真を撮ったんだ、と思っていたら、この橋は二重橋ではないようです。

 環境省の皇居外苑によれば、この橋の正式名称は「皇居正門石橋」といい、江戸時代は西の丸大手橋と呼ばれる木造でしたが、明治21年12月に石造の橋に建造されました。

 二重橋と言われた橋はこの奥にあった橋で、江戸時代には西の丸下乗橋と呼ばれた木造の橋です。この橋の橋桁が堀の深さに対応すべく、上下二段に重なるように架けられていたことから「二重橋」と呼ばれるようになったようです。  明治21年10月に鉄の橋に架けかえられた時には二重構造ではなく(昭和39年まで二重橋という説もあるが鉄骨で二重アーチ構造にする必要性がなく、写真も見つからない)、昭和39年に架け替えられた現在の鉄橋でも、やはり二重構造ではありません。正式名称としては「皇居正門鉄橋」と呼ばれています。

 つまり、二重橋はとっくにないのです。

 きっと言葉だけが残っていて、後に訪れた本物の二重橋を見たことない人達が「これが二重橋だ」と決めてしまったのでしょう。近頃の理由は、お濠に二つの橋があるから、とか。重なってはいないけどアーチが二つ並んでいるので二重橋と呼ばれているようです。

 東京見物に限らず、旅行帰りの人に「旅はどうでしたか?」と聞くと、ほとんどの人が「いい旅だった」といいますよね。それを聞いた人が同じ場所へ旅行し、噂ほどではないなと思っても、帰宅して誰かに尋ねられれば「いい処だったよ」といいますよね^^ それに似ているかもしれません。
 

 曲名:東京見物

 歌手:三橋美智也

 作詞:伊吹とおる

 作曲:佐伯としお

 発売:昭和32年

 

1.写真で見ただろう おっ母さん
  お堀にうつった 二重橋
  東京見物 させたいものと
  云ってた兄貴も 草葉の陰で
  にっこり笑って 見てるだろ

木造二重橋

正門鉄橋

正門石橋

皇居

 皇居は、天皇の平常時における宮殿・住居ですが、「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは、第二次世界大戦後に宮城の名称が廃止され、東京の江戸城跡一帯を指して皇居と呼ばれるようになってからです。過去には、内裏(だいり)、御所、大内(おおうち)、大内山、九重(ここのえ)、宮中(きゅうちゅう)、禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、百敷(ももしき)、紫の庭(むらさきのにわ)、皇宮(こうぐう)、皇城(こうじょう)、宮城(きゅうじょう)、蓬が洞(よもぎがほら)、大宮、雲の上、雲居などと呼ばれていました。

 古代には、天皇の住居は一世ごとに移転され、皇居は宮(みや)と呼ばれる宮殿を指していました。『古事記』や『日本書紀』には、4世紀から6世紀にかけての宮殿の多くが奈良盆地の東南の地に営まれたと記されている。

 では、宮の流れを第1代神武天皇の畝傍橿原宮から、さら〜っと追いかけてみましょう。(16分)

 現在の京都御所は、明治維新後の東京行幸の後に留守となり、天皇の指示で保存されて現在に至っています。

 皇居の住所表示は東京都千代田区千代田1番1号(郵便番号は100-0001)。

江戸城

 父に武蔵国の名族で秩父氏の当主である秩父重綱を持つ四男重継は、平安時代の末に武蔵国江戸郷を相続し、江戸貫主となり(惣領)「江戸四郎」と称して江戸氏を興しました。武家として江戸に最初の根拠地を置いた江戸氏は、桜田の高台(後の江戸城本丸、二の丸周辺)に居館を構えたという。ここではまだ城ではない。

 15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が、長禄元年(1457年)に武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)に築いた平山城が江戸城です。『徳川実紀』でによれば、これが江戸城のはじめとされています。

 一般的に江城(こうじょう)、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれていた。

 

暗殺

 扇谷上杉家は山内上杉家の分家的存在であったが、太田道灌の江戸城築城などで力を増していた扇谷家は、後に山内家と両上杉家と呼ばれるまでになった。

 しかし、文明18年7月26日(1486年8月25日)、太田道灌をよく思っていなかった扇谷上杉家の当主扇谷定正は、家臣である太田道灌を糟屋館(伊勢原市)に招き、暗殺してしまう。

武蔵国

東海道

江戸

武蔵国古地図

 城を建てた道灌が定正に殺害された後、江戸城は上杉氏が所有(江戸城の乱)することになり、上杉朝良が隠居城として用いていた。ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後、北条氏の北条氏綱の支配下に入る。

 

江戸時代 天下普請前後

 天正18年(1590年)8月1日(旧暦)、豊臣政権の大名として徳川家康が江戸城に入城した時は、太田道灌が築城したままの質素な城でした。その後は徳川家の居城として改築が進められました。それから13年。

 慶長8年(1603年) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手します。

 神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行う。

 江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。

 明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となる。

 以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となり、その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。

 慶応4年(1868年)4月4日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。
 明治2年(
1869年) 東京奠都。皇城と称される。
 明治21年(
1888年) 明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
 昭和23年(
1948年) 皇居と改称された。

テレビ

 写真は昭和31年なのになぜ宮城と書いたのかは、私が想像するに、単に言葉の切り替えがまだ出来ていなかっただけではないかと思われます。なにしろ津軽と南氷洋の往復ですし、昭和28年2月1日にNHKが日本初のテレビジョン本放送を東京で開始されて三年とはいうものの、航海中は見れません。ラジオも聴けません。
 青森県ではどうだったかというと、ラジオが昭和13年(
1938年)にNHK弘前放送局として開局し、独自の放送を行っていました。34年3月21日、NHKがテレビ放送を開始します。

 民放の青森放送(RAB)は1956年(昭和31年)12月10日、弘前ラジオ放送局(コールサイン:JOGE)開局し、テレビは1959年(昭和34年)9月14日に同社テレビサービス放送が開始されました。
 昭和31年はもちろん、34年3月21日までテレビ放送されてなかったようですね。

 ラジオはあったとは言うものの、標準語教育がままならない地域では標準語と接する機会がなく、しゃべれないですよね。

 おやじが初めて買ったテレビは日立の14型白黒テレビ「スザンナ」でした。私が生まれてすぐ買ったと聞いていましたが、いろいろ調べてみると翌年の35年のようです。何れにせよ本人は楽しめません。

 

方言

 親が捕鯨人だった方々と如是我聞会話が重なってくると、どうやら捕鯨船団では船舶用語でも呼び方や発音が違っていることに気づきました。よく考えてみると各地方から船員が集まって来る船団の中は、方言だらけではなかったかと思われます。それに加えて戦時中の海軍や陸軍から元軍人も乗船しており、様々な言葉とイントネーションが飛び交っていたことでしょう。しかし、意思疎通ができないと仕事になりませんから、南氷洋の海上で独自の標準語化が進んでいたと推察されます。

 私が子供の頃のある日、東京で呑んでも津軽弁が出なくなったと言っていたのを覚えています。また「船では

こう言う」とか「こうする」とよく言ってましたね。 

参考資料:江戸城

    :皇居

    :NHK

    :NHK弘前支局

錦城丸

原節子

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