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ペンギン

おやじメモより

 ペンギン島を前に、今度主人になられた堤大四郎さんに撮影してもらう。岡田製油長と自分。

 ペンギン島は日本から見ると南極大陸の向こう側です。
 南極海のサウス・シェトランド諸島の一つであるキングジョージ島の南岸すぐ近にあり、位置と大きさは西経57度93分、南緯62度10分の南極にある幅約1.4km、長さ約1.7km、最高峰は180mです。

 クレーターのようなものが見えますが原水爆実験の跡などではなく、ペンギン島は玄武岩質スコリア丘(マグマの噴火によって出来た丘)であり、1905年ごろに噴火した跡のようです。
 日新丸はこの近くに停泊していて、この記念写真を撮ったのでしょう。

 キングジョージ島はイギリスとアルゼンチンとチリが領有権を主張しているが、南極条約によりその行使は凍結されています。そしてここは南極観測基地の密集地帯であり、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ロシア、大韓民国、中華人民共和国、ポーランド、ウルグアイの観測基地があり、ほとんどが有人越冬基地のようです。

日本

14.000km

ペンギン島

 ペンギン島で検索していると、どうやら西オーストラリア パースの自然保護長 ペンギン島 パンフレットpdf の方が有名なようです。観光で行くならこちらですね。

←こちらの「ペンギンの達人」さんで、おやじの写真に写

っているペンギンを調べてみたのですが、私には判別がつきませんでした。ただ、家にあるペンギンの剥製は、アデ

            リーペンギン属(Pygoscelis)

            ジェンツーペンギンであろうと

            思われます。足が黒く写ってい

            ますが、私が幼稚園の頃は嘴

            ような色だったと記憶していま

            す。

         捕鯨船団は鯨を捕ってるだけではありませんでした。

        「南氷洋にもカモメがいた」で紹介した中に「南極の鳥に関する情報の多くは鳥類学者ではなく、鳥類学を専門としない海洋研究者や調査捕鯨などに従事する者からのものである。」とありました。実際に専門家たちが南極へ行きだしたのは平成時代のようです。

 また、1959年に日、米、英、仏、ソ連(当時)等12か国により、南緯60度以南の地域に対する南極条約が採択され、1961年に発効されました。 

 さらに1973年、アメリカの首都ワシントンで採択され、1975年に発効した「絶滅のおそれのある野生動植物の譲渡の規制に関する法律(ワシントン条約)」に日本が加盟したのが1980年。このことでペンギンは法で守られるようになり、簡単には南極から連れて来れなくなりました。

 

 しかし、昔は、電通さんの記録によると、

1951年(昭和26年)
○ 動物園ブーム続く -  王子動物園(神戸)(3.20),野毛山動物園(横浜)(4.1 ),円山動物園(札幌)などが

            開園。上野動物園に戦後初のペンギンが大洋漁業「第2天洋丸」から贈られる(4.21)。

電通S26

第二天洋丸

←これも親父が撮った写真ですが、剥製と同じアデリーペンギン属(Pygoscelis)ジェンツーペンギンだと思われます。場所は不明ですがペンギンの達人で生息地を調べてみると、ペンギン島周辺

に多いようです。ここはペンギン島なのか。それとも他の島なのか。今となってはハッキリしませんが、こういう写真を撮るのも捕鯨船団の役目だったようですね。

← そんな話を含めながら、2014年6月23日。フジテレビ「スーパーニュース」の「ペンギンだらけの水族館 世界初のアイデアで人気」という特集のなかで、おやじの写真がチラッと紹介されました(残念ながら青森県では放送されていません)。

 またこの頃は、ペンギンを捕まえるために船を下りなくても、鯨を上げていると一緒についてきたといいます。おそらくスリップウエイを登って来ちゃったのでしょう。

 ペンギンにとっては未知との遭遇ですね。

 

 ペンギンは南半球に広く生息していますが、南極大陸で繁殖するのは、コウテイペンギンとアデリーペンギンの2種のみだそうです。
 また、中日新聞に下記のような記事が載っていました。

中日新聞 20090108
【南極便り】
 日本南極地域観測隊では、1961年(昭和36年)から昭和基地周辺のアデリーペンギンの個体数調査(ペンギンセンサス)を行っている。個体数の変動は気候変化、海氷条件、人間の

おやじメモより

 帝王ペンギン 操業中堤主人に撮影していただく

写っているのは父(26)です。

        「ペンギンの達人」さんで調べて

         みましたら「帝王ペンギン」という種類がない。他で調べてみても、ない。これはいったいどういう事か?

 帝王ペンギンという名で紹介しているブログやホームページもありましたが、そこで紹介されている写真をよく見るとキングペンギンが多いようです。現在の分類法でいう「Aptenodytes コウテイペンギン属」を言っているのだろうと思われます。

 さて、ペンギンの分類については諸説あり、そもそも飛べない鳥は鳥か?という議論もあるようですが、そこは鳥で行きましょう。現在(2012年)でも、6属17種、6属18種、6属19種とあり、ここでは「ペンギンの達人」さんに習って6属17種で話を進めたいと思います。

 エンペラーペンギン属(Aptenodytes 翼の無い潜水者)には「皇帝(コウテイ)ペンギン」と「王様ペンギン」の2種類があります。
 この図とおやじの写真を比べてみると、写真のペンギンは「皇帝(コウテイ)ペンギン」であることが分かります。
 きっと、こういう色が付いていたでしょう。

漁業活動などの影響を受け、モニタリングは南極環境の調査としても有意義と考えられる。49次越冬隊には生物部門の隊員がいないので、医療担当の橋本隊員が中心となって調査を計画、実施した。調査のため宿泊を伴う海氷上の旅行が2回計画され、私はそのリーダーを務めた。

 日本南極地域観測隊でさえペンギンの個体数を調査しはじめたのが昭和36年なんですね。
 ということは、昭和29年のこの頃は大洋漁業や各社の捕鯨船団が、クジラを狙いながらできる範囲で簡単な南極調査もしていたのでしょう。というより、大陸へ上陸はしないものの南極情報は、慣れている捕鯨船団が伝えるしかなかったのです。

 昭和31年11月8日に第1次南極観測隊の観測船「宗谷」が、雨の晴海埠頭を出港するまで、あと3年弱の頃です。

 

wikipediaによると
 昭和基地(しょうわきち)は、南極圏内の東オングル島にある日本の観測基地。南緯69度00分22秒 東経39度35分24秒 座標: 南緯69度00分22秒 東経39度35分24秒 、標高29.18m。基地の名称は建設された時代の元号「昭和」にちなむ。
 昭和基地の歴史は、ほぼそのまま日本の南極観測の歴史でもある。
 1951年(昭和26年)に国際地球観測年が提唱されると、日本はこれに参加を希望した。当初、赤道観測を行う予定であったが、予定地の領有権を持つアメリカの許可が出ず、1955年(昭和30年)2月、南極観測に切り替え、12か国による共同南極観測に参加した。本来は2次で終了する予定であった。準備期間が短く、観測船「宗谷」も旧船を急ぎ改造したものであった。観測隊出発まで基地の場所は決まらず、決定は隊長に一任されていた。
 1956年(昭和31年)に出発した南極観測船「宗谷」で永田武隊長率いる第1次南極観測隊53名が東オングル島に到着。
 1957年(昭和32年)1月29日、永田らが上陸、昭和基地と命名する。1月31日の正式決定のあと2月1日から建設が始まる。2月8日、永田はここで一夜を明かした。永田らは2月15日に離岸する。このとき完成していた棟は4つで、うち1つは発電棟だった。隊員のうち西堀栄三郎副隊長兼越冬隊長以下11名が越冬した。1次隊は観測器具が凍りつくなどの極度の困難が続いた。このときに輸送などで活躍したのが、樺太犬による犬ぞりであった。
 一方2月15日に離岸した「宗谷」は分厚い氷に完全に閉じ込められ、28日に当時の最新鋭艦だった旧ソ連の「オビ」号に救出された。
 1958年(昭和33年)、1次隊に続けて隊長となった永田率いる第2次観測隊を乗せた「宗谷」は深い岩氷に挟まれ、接岸を断念。2月14日、1次隊越冬隊の全隊員は飛行機とヘリコプターで脱出した。犬のうち15頭はその後の活動のため残された。しかし天候は回復せず、2月24日正午(一説では13時)、永田は越冬不成立を宣言。犬は置き去りにされた。当初2次で終了する予定であった観測隊が、2次観測隊の不成立により3次まで延長され、1年後に第3次越冬隊が昭和基地に到着すると、犬のうちタロとジロの2頭が昭和基地で生き残っているのが発見された。この逸話は映画「南極物語」になり、大ヒットしている。

おまけ 南極物語ドキュメント               とっても分かりやすい ペンギン

プロジェクトX 挑戦者「運命の船『宗谷』発進」南極観測 日本人が集結した880日前編

 

赤道際で「劇」 ミナシキ16mm映写機

マルハのロゴ

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