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第八関丸

第八関丸の大漁

おやじメモより

 晴れ 天下のボート 大漁長須くじら 第八関丸キャッチャーボートの優秀&腕前 次々もってくるとこれぢゃ五日位母船は動く事が出来ない

 嬉しい悲鳴というところでしょう。

 前ページの「日新丸 船艉」では、二〜三日動けないとありましたが、大漁日が続いているのでしょう。今度は五日動けないようですね。
 それにしても、12頭もよく引っ張って来ますよね。
 捕鯨船の船首では母船から渡されるロープを握っています。見えにくいけど立っている人はワイヤーを掴んでいるように見えます。

 鯨の尾が海面まで下げられているということは、すでに母船からのワイヤーが鯨の尾に結ばれて、スリップウエイに引かれるのを待っているのでしょう。それにしてもよくロープが絡まないものですね。

 極寒の南氷洋での作業です。
 おやじから聞いた話ですが、このような作業中に、稀に海へ落ちてしまう作業員がいたそうです。もちろん助けるのですが、冷たい南氷洋に落ちた人を暖めるには、まず水風呂入れ、徐々に暖かいお湯に入れるのだと言っていました。

 また、ブログを縁に日頃お世話になっている文子さんより、ご主人が編集された機関長「弘井武志の船員日記 〜第21次南鯨〜」を読み進めていると、捕鯨船の砲手が大波に飛ばされるという出来事が記録されていました。

 昭和42年1月14日(土)天気O(曇り)、風力3

 各船7頭ずつの制限。本船は午後10時前に終わる。昨日、悪天の中の操業中、第十七文丸の前田砲手が大浪に飛ばされ甲板に転落。其の時には本人も大した事はないと言っていたそうだが、段々意識が不明になり本日遂に母船にて死去さる。丁度、家族からの便りもあっただろうに、大正14年生まれの厄年なり。冥福を祈る。内地で一緒に乗った事もあり、砲手中の紳士なり。泣けて書けぬ。

弘井武志

 これは辛いですね。様々な事を乗り越えて鯨を追いかけていたのでしょう。この日は弘井氏の娘さんの誕生日でした。翌1月15日は長女さんの成人式でしたが、日記には「誕生日も成人式もなく、只呑み暮らすばかり」とあります。呑んでも眠れず、娘たちの誕生日と成人式のお祝いを兼ねて「無線室へまた一本持っていくか。」と、ここで日記を終えています。(第十八関丸にて)

 本来ならば内地の娘さんを想って、旨い酒を一杯呑む夜だったはずですよね。

 それにしても、波が捕鯨船の船首にある砲台を超える事があったとは、すごい仕事です。

 

* 弘井武志(大正六(1917)年〜昭和五十二(1977)年) 高知県出身 甲種一等機関士として数々の捕鯨船で活躍した。大洋漁業、関東開運局長などから表彰される。昭和21年の第一次南鯨から参加していたベテランです。

 次に、昭和47年12月22日の第27次南氷洋捕鯨にて、第三日新丸での献立が丸山シチュウジ(司厨長)のノートによると下記の通りです。 ★ 丸山正志 自分勝手なホームページ

 出港、入港赤道祭などと比べると、操業時の献立はとても質素です。昼食のかけそばは、食べる時間がもったいないほど忙しかったのかもしれません。それでも士官食堂では別料理だったでしょう。

鯨肉を中積船へ

目標達成 弘井武志

復路前進! 弘井武志

赤道際 キャッチャーボート

日新丸 船尾

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