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神戸ドック

おやじメモより

 若い日 神戸ドックにて

 おそらく昭和30年頃に撮られた写真だと思われるので、おやじ達が乗船して来た船は、元第一日新丸の錦城丸だったと察します。
 神戸ドックとしか書いてないので、どこの会社の造船所なのかわかりませんが、もし錦城丸だとするば川崎重工業だろうと思われます。

 そもそも第一日新丸(Nisshin Maru No.1)は戦時中、大阪商船株式会社の大欖丸(Tairan Maru)として、昭和20年に三菱重工業株式会社長崎造船所で起工されていたのですが、

同年8月9日午前11時02分、米国のB-29爆撃機「ボックスカー」から

投下された原子爆弾「ファットマン(インプロージョン方式プルト

ニウム活性実弾 F31)」が炸裂し、大欖丸はそのまま放置されてし

まいます。

 昭和21年、大阪商船(株)は、建造中の大欖丸を大洋漁業に売却し、

大洋漁業は大欖丸を捕鯨母船(第1350番船)として完工させ、第一日

新丸 NISSHIN MARU No.1 と改名して進水させました。

 昭和21年12月、戦後第一次南氷洋捕鯨に長崎より出港します。 

 昭23年8月、主機をD 三井B&W 5,400BHPに換装。
 昭26年6月11日、油槽船に改造、錦城丸 KINJO MARU と改名。B.V.船級取得改造工事。

 (この時点で第一日新丸は捕鯨母船としての役目を終え、中積船タンカーとして活躍します。その代わりに投入されたのが、二代目日新丸です。)

 昭29年4月30日、再度、川崎重工業(神戸)で捕鯨母船に改造し、船名を錦城丸のまま捕鯨母船として復活します。同年11月、第 9 次南氷洋捕鯨へ出港。
 昭和33年10月、主機をD 川崎M.A.N.K9Z 70/120C 8000BHPに換装。
 昭和40年3月、解体のため三菱商事(東京)に売却、大阪で解体。

 

 という事なので、ひょっとすると昭和29年の錦城丸捕鯨母船改造中に応援で神戸入りしていて、その時に撮った記念写真かもしれませんね。もしくはその後のメンテで帰港した折に撮ったのでしょう。

 現在の川崎重工業(株)神戸工場は、1970年の地図では川崎重工業、1950年は川崎造船所と書かれています。

 おそらくこの辺りのどこかで撮った写真だと思われますが、撮影ポイントまではわかりません。ひょっとすると、下の地図の川崎重工業の「崎」の文字あたりか。

兵庫造船所

 1869年(明治2年)8月 - 加賀藩関係者が「兵庫製鉄所(通称・加州製鉄所)」設立。

 1871年(明治4年)2月26日 - バルカン造船所を買収し工部省製作寮兵庫製作所を設置。

 1872年(明治5年) - 工部省が兵庫製鉄所を買収、兵庫製作所と合併。

 1873年(明治6年)4月14日 - 東川崎町に移転。

 1877年(明治10年)1月11日 - 兵庫制作所は「兵庫工作分局」と改称。

 1883年(明治16年)9月22日 - 兵庫工作分局は「兵庫造船局」と改称。

 1885年(明治18年)12月22日 - 兵庫造船局は農商務省工務局「兵庫造船所」と改称。

川崎造船所時代(1878年〜1939年)

 1878年(明治11年)4月 - 川崎正蔵が「川崎築地造船所」を東京築地に開設(川崎造船所の創業)。

 1881年(明治14年)3月 - 「川崎兵庫造船所」を神戸東出町に開設。

 1886年(明治19年)5月19日 - 「兵庫造船所」の払い下げを受け、「川崎造船所」と改称、「川崎兵庫造船

          所」を合併。9月に川崎築地造船所は閉鎖。

 1896年(明治29年)10月15日 - 株式会社川崎造船所を設立。

 1902年(明治35年)11月 - 第1乾ドック完成(2月にはほぼ完成)。

 1906年(明治39年)4月5日 - 初の国産潜水艦・第6・第7竣工。

 1906年(明治39年)9月 - 運河分工場設置(1913年に兵庫工場と改称)。

 1907年(明治40年)11月19日、通報艦「淀」竣工(国内民間造船所での10,000トン以上の軍艦の第1号)。

 1912年(大正元年)11月 - ガントリークレーン完成。

 1915年(大正4年)4月19日 - 戦艦「榛名」竣工(戦艦「霧島」と共に民間造船所初の戦艦建造)。

 1918年(大正7年)7月 - 葺合工場設置。兵庫工場自動車科、飛行機科設置。

     同年10月7日から11月5日 - 大福丸型貨物船「来福丸」を30日間の世界最短記録で建造。

 1919年(大正8年)4月10日 - 川崎汽船株式会社設立。

 1922年(大正11年)9月7日 - 飛行機部設置、飛行機部各務ヶ原分工場設置。

 1927年(昭和2年)4月21日 - 十五銀行が臨時休業、経営危機に陥る。

 1928年(昭和3年)5月18日 - 鉄道車両と鋳造品を製造する兵庫工場を、川崎車輛株式会社として分離。

 1928年(昭和3年)6月27日 - 本社工場・葺合工場をそれぞれ艦船工場・製鈑工場と名称変更。

 1931年(昭和6年)7月20日 - 和議の申し立て。

 1932年(昭和7年)8月13日 - 神戸区裁判所で和議開始決定。

 1932年(昭和7年)11月22日 - 和議認可決定。

 1936年(昭和11年)8月1日 - 初代日新丸進水

 1937年(昭和12年)6月 - - - - 初代第二日新丸完成

 1937年(昭和12年)11月18日 - 航空機部門を分離し川崎航空機工業株式会社設立。

川崎重工時代(1939年〜)

 1939年(昭和14年)12月1日 - 川崎重工業株式会社に社名変更。

 1940年(昭和15年)3月5日 - 艦船工場が海軍管理工場に指定。

 1941年(昭和16年)9月25日 - 空母「瑞鶴」竣工(民間造船所初の空母竣工)。

 1942年(昭和17年)4月17日 - 艦船工場・製鋼工場が重要事業場指定工場となる。

 1942年(昭和17年)5月1日 - 第102海軍工作部ジャカルタ分工場開設、海軍より委託される。

 1942年(昭和17年)10月28日 - 泉州工場開設。

 1943年(昭和18年)3月10日 - 伊保工場開設。

 1943年(昭和18年)12月28日 - 知多工場開設。

 1944年(昭和19年)1月17日 - 軍需工場に指定。

 1944年(昭和19年)6月15日 - ジャワ第2船舶工場開設、陸軍より委託を受ける。

 1945年(昭和20年)3月17日 - 神戸空襲。

 1945年(昭和20年)6月5日 - 神戸空襲(2次)。

 1945年(昭和20年)7月25日 - 泉州工場が空襲を受ける。

 1945年(昭和20年)8月22日 - 兵器製造を中止。

 1947年(昭和22年)12月6日- 大橘丸(後の第二天洋丸)

 1950年(昭和25年)8月7日 - 鉄鋼部門を川崎製鉄株式会社として分離。

 1954年(昭和29年)4月30日- 錦城丸を再度捕鯨母船に改造。

 1954年(昭和29年)5月10日- 第二播州丸 竣工 

 1962年(昭和39年)11月 - ガントリークレーン解体。

 1969年(昭和44年)4月1日 - 川崎重工業・川崎航空機工業・川崎車輛が合併。

 2002年(平成14年) - 川崎重工から船舶部門が分離され、川崎造船株式会社が発足。旧川崎造船所は同社神戸

           工場となる。

 2010年(平成22年) - 川崎造船は川崎重工業に吸収され、川崎重工業船舶海洋カンパニーとなる。

 

 

日新丸

 戦時中は数々の軍艦を造船していました。日本初の潜水艇(明治39海軍へ引き渡し)を作ったのも川崎造船所でした。明治44年(1911年)国産化第1号となる蒸気機関車(6700形テンダ形機関車)を世に出したのも川崎造船所です。また、ライト兄弟の初飛行(1903年12月17日)からわずか15年後の1918年に、兵庫工場飛行機科を設置し、1922(大正11)年には複葉機を完成させ、陸軍から極めて優秀と認められました。これが、陸軍最初の制式機となった乙式1型偵察機で、1927(昭和2)年までに約300機を製造しました。

 その後はバスを作り、中国向け蒸気機関車を作り、昭和14年に川崎重工業株式会社として社名変更して戦闘機「飛燕」を生産します。

 昭和20年、当然空襲されるわけですよね。

 戦後は対日講和条約が発効する1952(昭和27)年までの7年間、航空機の生産は禁止されます。解禁後の昭和27年、アメリカのベル・ヘリコプタ社と技術提携し、1954(昭和29)年に明石工場で国産第一号の川崎ベル式47D-1型ヘリコプタを完成させました。

 並行して岐阜工場では、1953(昭和28)年から4人乗り連絡機の設計に入り、

同年にKAL-1(小型プロペラ機)連絡機を完成させました。

 そして1969(昭和44)年、国産最大の排気量車として大型モーターサイクル

ブームに先鞭をつけたWシリーズに続いて、画期的な新型H1(2ストローク3気

筒498cm3)がデビューし、世間の注目を集めました。個人的に大好きなバイク

です!

 

KAL-1

H1

 川崎重工業の他にも同時代に活躍していたドックは、南に三菱重工業神戸造船所、南西に神戸ドック工業がありました。

 不景気.comによると、残念な事に船舶修理の「神戸ドック工業」(登記上:神戸船渠工業)は、2010年9月3日付で神戸地方裁判所へ民事再生法の適用を申請したことが明らかになりました。

 同社ホームページによると、1918年に「東出鉄工所」として創業の同社は、貨物船・タンカー・フェリーなど船舶の修理・点検を主力とするほか、火力発電用の空気予熱器など機械製品の製造にも進出し、事業を展開していました。

 しかし、阪神・淡路大震災による工場の被災で、再建に伴う多額の借入金が資金繰りを逼迫したことに加え、景気低迷による修理受注の減少で業績が悪化。単独での経営再建は困難と判断し、今回の措置に至ったようです。

 神戸新聞(電子版)などによると、負債総額は約15億6000万円。

 

参考資料

空襲で破壊された日本の大都市

広島原爆投下

長崎原爆後 街風景 ATOMIC BOMB

【閲覧注意】

原爆が投下された広島・長崎の貴重な画像

参考資料三菱重工業

    :川崎重工

    :川崎造船所

    :ファットマン

    :1970年地図 出典:国土地理院ホームページ

    :KAL-1 

    :H1

    :

マースクの貨物船 日本とデンマーク

第二日新丸

三十年

横浜ドック 4 

リベリア船 KYMO号

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