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解体風景 秋田組と岩手組 マルハ木曜アワー

 数組に分かれて解体していたのでしょう。
 これは想像ですが、秋田組とは秋田さんの組ではなく秋田県出身の組ではないでしょうか。同じ言語じゃないと意思の疎通がうまくいきませんよね。それにしても
渾名がユニーク。

 写真は二代目日新丸の中央から前方を撮っています。

おやじメモより

 秋田組の解体 A、秋田、幡美山 B、芝居の王者 C、公務員 D、小隊長 E、中隊長
        F、白長須鯨の下アゴに着す歯 G、骨を粉砕する鋸 H、氷山 I、胴骨

 さて、上の写真が秋田組なら、こちらは岩手組という事になるでしょう。

 2014年12月02日 。ブログにコメントを入れてくださった岩手県出身の「道地純也のFunkyブログ」さんの父上も第三日新丸に乗船したということです。間違いなく同じ母船に乗っていますね。またその時に料理を作っていたのが丸山シチュウジ(司厨長)さんでしょう。きっと親父同士は知っていたと思われます。

 写真の鯨はシロナガスクジラだと思われますが、弘井武志機関長が乗っているキャッチャーボートが運んで来たのかもしれませんね。それにしても皆さん良い顔しています。この場所はスリップウェイを登ってきた所なので、担当する鯨が決まり、俎(まないた)の空き待ちなのかも知れません。

 道地さんの写真をよく見ると、この写真は第三日新丸ではなく、その前に活躍していた元第一日新丸の錦城丸のようです。

←(撮影角度が違う同船の写真) 

 だとすると、錦城丸時代から同じ母船に乗っていことになりますね。

 家族でおやじのお迎えに行くと、皆んなに「私がお父さんだよ」と言われた事や、捕鯨家族あるあるも同じでした。

 ただ一つ、ラジオ放送の話だけは、私が聞いていなかったのでよく分かり

ませんでした。今回もかなり調べたのですが分かりません。

 道地さんによると夜8時頃、AMラジオで加藤登紀子さんの知床旅情が流れる大洋漁業の番組があったそうです。

 当時小学生だった道地さんが、父への手紙でしょうか、手紙を朗読するために同年の子供達と、岩手県北の二戸市で行われた番組収録に参加されたそうです。留守を守っている家族と南氷洋で働くお父さんとのパイプ役的な番組だったのでしょう。私の調査はまだまだつづく。 

 道地氏。良い顔してますよね。腰をかけているのは、中積船から捕鯨母船へ、または母船からキャッチャーボートへ人や荷物を渡す時に使う大きなカゴです。

 

★ ちなみにシロナガスクジラであっても、解体時間は20分で終了。

★ 丸山シチュウジ(司厨長)のご子息曰く「短波放送で『お父さんに一言~』を言わされた(?)のを覚えてます」

 と。番組があったのならAMで放送されていても不思議ではないですね。一歩近づいたかも^^ 

マルハ木曜アワー

 成山堂書店発行の大洋漁業南氷洋捕鯨船団の記録を残す会編「捕鯨に生きた」のなかに、放送ライター澤田賢二氏のページがあり、昭和42年7月27日木曜日から昭和58年7月28日木曜日まで、まる16年間、835回、久保まづるかさんと、一度も休むことなく放送していたと書かれていました。その番組名が「マルハ木曜アワー(30分)」だそうです。

 企画内容は、南氷洋捕鯨に出ているマルハの社員にご家族の声を届けること(収録、インタビュー、手紙など)。南氷洋から船団が帰ると、次は北洋捕鯨向けの番組を放送し、合間に遠洋マグロ漁船向けに放送していたようです。

 道地さんや丸山さんが子供の頃に体験したのは、この「マルハ木曜アワー」だと思われます。

短波放送 

 日本から南氷洋で操業している捕鯨船団へ声を届けるには、もっぱら短波が使われています。現代なら衛星でしょうけど、米国が衛星で中継実験したのが1974年。NHKが世界初の直接受信衛星放送に成功したのは、1984年(昭和59年)でした。マルハ木曜アワーが放送されていた時代は、短波でなければ届かなかったのです。

 南氷洋の捕鯨母船と日本を繋いでいた局は、電電公社(現NTT)の銚子無線電報局(JCS)、長崎無線局(JOS)、落石無線送信局(JOC)の三つの海岸局でした。長崎無線電報局の無線通信室の風景では、次のように紹介されています。

「年末始繁忙を一層高めたものに、南氷洋で捕鯨に活躍した捕鯨船団からの電報がある。捕鯨通信は昭和21年、戦後直ちに再開されている。捕鯨母船を中心に油槽船1隻、冷凍船2隻、沖積船5隻、キャッチャーボート9隻位て船団を組むが、1船団で12000通程度の電報を扱い、そのうち年賀電報が大半を占めている。
 捕鯨通信は長崎無線と銚子無線で担当した。長崎無線は捕鯨通信専用席を設け、高速通信を行って疎通に努めた。高速通信の受信はテープレコーダーを使用し、BFOを限度近くまで上げて音色を甲高くしていたが、フエーディングで聞き取れず翻訳に苦労していた。
 捕鯨線表の担当にはベテランが当てられていた。昭和30年代後半には船団からのお土産として鯨肉が配られることもあったが、捕鯨禁止の流れを思うと今昔の感がある。」

 

 さて、マルハ木曜アワーがAMでも放送されていたかどうかについては、まだハッキリ分かりませんが、ローカル局と短波局は、いろんな面で協力関係にあったようです。

 長崎放送はラジオ長崎として、創業時より筆頭株主のマルハ(現・マルハニチロ)との関係が深い。フムフム

クロー

第十二関丸

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