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青?港

おやじメモ

 青?港

 ?は文字が滲んで読めません。

 青森港ではなさそうですが、はて、どこでしょう。

 タグボートの煙突に「工」と読めるファンネルマークが描かれています。

 この「工」が分かれば、何か発見できるかもしれません。

 あっという間に四年が経ち、偶然発見した写真が金剛丸(こんごうまる)という船舶模型の写真です。「工」は工部省の「工」であることが分かりました。

工部省

工部省

 明治政府の官庁の1つで、太政官制度の下で殖産興業(しょくさんこうぎょう:明治政府が西洋諸国に対抗し、産業、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を指す。)を支えた中央官庁のことです。

 明治3年閏10月20日(1870年12月12日)に民部省の一部が独立する形で設置され、官営事業としての鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など近代国家に必要なインフラストラクチャー整備を行った。

 1880年代前半には、鉄道・電信などを除き官営工場の民間への払下げが進められ、明治18年(1885年)12月22日、内閣制度とともに工部省は廃止されて、逓信省(ていしんしょう)と農商務省に分割・統合される。なお、鉄道事業は内閣直属になり、電信・灯台などの事業は逓信省に引き継がれた。

 明治4年(1871年)に開設された人材育成機関の工部大学校(現在の東京大学工学部に相当)を管轄したが、工部省の廃止に伴い、工部大学校は文部省に移管され、翌明治19年(1886年)の帝国大学令により帝国大学工科大学になった。

鉄道院

 1885年に工部省が廃止されると鉄道局は内閣の直属となった。1890年には内務省外局の鉄道庁に改組されたが、1892年には逓信省外局に変わり、その翌年には内局化され逓信省鉄道局となった。さらに同局の現業部門が1897年に逓信省外局の鉄道作業局(1907年に帝国鉄道庁に改組)に分離され、鉄道局は監督行政のみを受け持つことになった。

 相次ぐ鉄道行政の所管変更、監督組織と現業組織の分離による混乱は、鉄道国有化問題をきっかけに社会問題となった。このため政府は1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合した内閣鉄道院を新設し、再び内閣の直属機関とした。

 また1919年5月1日には鉄道管理局の大規模な再編を行い、札幌、仙台、東京、名古屋、神戸、門司の6鉄道管理局が発足した。交通運輸施策の拡充を掲げる立憲政友会の原内閣によって1920年、鉄道事業の権限強化・独立を目指して、鉄道省に昇格した。

鉄道省

 戦前の日本で、鉄道や運輸行政を管轄した国家行政機関の一つ。1920年(大正9年)5月15日に設置される。

 1941年12月に太平洋戦争が勃発すると一部の車両は海外の占領地での軍隊輸送などに使用するため内地から送られた。また、貨物輸送が優先されたため貨物列車向けの機関車増強が実施され、旅客輸送や民需物資の輸送の質は低下していった。貨車自体も増積みが実施され、輸送の効率化が図られた。

 船舶が逼迫したため、内航海運に充てられていた船舶を外航に転用が図られ「陸送転移」と称された。山陽本線など一部幹線では輸送力増強策が図られ、関門トンネルの開通などは陸送転移を促進した。陸送への完全転移が望めない場合は一部を陸送に転移する「中継輸送」が取られ、阪神地域で実施され潜水艦の襲撃を受けにくい日本海側の航路が利用された。これらの施策により国鉄の設備は酷使され、事故も多発していった。レールに代表される取り替え資材も不足していた。

 1943年(昭和18年)11月1日に運輸通信省に改組された。

 工のマークは官設鉄道及び国有鉄道で用いられたシンボルマークです。通称「工マーク」と呼ばれていた国有鉄道のマークで、最初の所管官庁である工部省の「工」から採られている。

  発 足 日           国鉄事業体   監督行政官庁

昭和18年(1943)11月1日         運輸通信省 鉄道総局

昭和20年(1945)5月19日            運輸省 鉄道総局

昭和24年(1949)6月1日   日本国有鉄道  運輸省 鉄道監督局

 

鉄道省

日本国有鉄道

戦後、GHQの占拠が終わり、日本が正式に国家として全権を回復したのは、昭和27年(1952)4月28日のことでした。

昭和16年 貨物列車

【 鐵 輪 】 ~ 昭和14年 鉄道記録映像 ~

金 剛 丸

概 歴

建造    昭和11(1936)年10月

解体    昭和28(1953)年10月

要 目

船種    客船

総トン数  7,082t

全長    126.5m

全幅    17.5m

機関    ボイラー8缶/蒸気タービン2基、 

      2軸推進

出力    17,632hp

航続距離  8,500海里

速力    23.2kt

乗客定員  1,746名

貨物積載量 3,174t

姉妹船   興安丸

興 安 丸

概 歴

建造    昭和12(1937)年  1月  

解体    昭和45(1970)年11月

要目(1936年)

船種    客船

総トン数  7,079t

全長    124.1m

全幅    17.4m

機関    ボイラー8缶/蒸気タービン2基、

      2軸推進

出力    17,645hp

航続距離  8,500海里

速力    23.1kt

乗客定員  1,746名

貨物積載量 3,174t

姉妹船   金剛丸

金剛丸 興安丸

 金剛丸は鉄道省が関釜連絡船の鉄道連絡船として造船した金剛丸型の第1船です。

 命名の由来は朝鮮半島の名山金剛山(現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)江原道にある)の名をとり命名され、姉妹船の興安丸中国東北部に連なる大興安嶺山脈の名をとり命名されている。

 金剛丸船内の装飾は、モダンな中に朝鮮様式を踏まえたものが施されていた。興安丸は日本・中国の様式を取り入れ、ロビーには南満州鉄道から寄贈された興安嶺の油絵を飾った。

 金剛丸は1936年11月15日に就航。姉妹船の興安丸が1937年1月31日に就航したことにより旅客定員が倍増したので渡航制限は解除された。しかし、両船の就航で関釜間の旅客は鮮満方面と行き来する旅客ばかりか日本軍や満蒙開拓団なども加わって混雑し、1937年に100万人を超え1942年には実に300万人を超える激増ぶりであった。

 戦争の激化に伴い、日本近海で商船が沈められる被害が相次いだため関釜連絡船にはいっそう負担がかかることとなり、金剛丸も本来の関釜連絡船以外にも博釜連絡船で運用されていたが、1945年5月27日に釜山から博多へ向かう途中、博多湾で機雷に触雷し、死者1名負傷者4名の被害を受ける。この触雷の浸水がひどく、沈没を防ぐために残島付近海岸に座礁し終戦を迎える。

 戦後1946年3月に金剛丸の引揚作業が着手され、同年7月に引き揚げられる。 1950年7月、朝鮮戦争のためアメリカ軍の傭船となる。1951年10月26日、釜山から佐世保港へ向かう途中、ルース台風のため五島列島宇久島沖で座礁し、傭船解除となる。離礁不可能のため、1953年10月に売却され、現地で解体された。

 興安丸は1945年9月~1947年4月に仙崎・博多-釜山間に就航し、海外邦人の引き揚げ、朝鮮人の帰国輸送などに当たる。引き揚げ者が上陸した仙崎漁港には、跡地の記念碑がいまも残り、記念碑には興安丸の活躍が記されている。

 1947年12月下関市で天皇全国巡幸時の御宿泊所とされた。

 1948年4月に関釜連絡船は公式に閉鎖され、1950年3月に朝鮮郵船(後の東京郵船→昭和郵船)へ国家賠償に伴う補償として払下げられた。

 1950年7月~1953年4月の朝鮮戦争時にはアメリカ軍に傭船され佐世保市釜山の国連軍輸送に就航し、朝鮮戦争終結後は政府の傭船により中国河北省秦皇島舞鶴間、ソビエト連邦(現ロシア)ナホトカ・ホルムスク-舞鶴の引き揚げ船として日本赤十字社の救護班を乗せて1957年に至るまで延べ22回の活躍し、舞鶴港の「岸壁の母」の悲話で国民の胸を打った。引き揚げ船としての就航を終えると一時期海上自衛隊によって航空母艦への改装が検討されたものの実現せず、結局1957年横井英樹の東洋郵船に売却された。

 東洋郵船では1958年に東京湾遊覧船として就航した後、1959年~1967年にはインドネシア ジャカルタ-サウジアラビア ジッダのイスラム教巡礼船やインドネシア国内航路に転用され、この間1959年には北ベトナム(現ベトナム)ハノイ-東京間の引揚げにも従事した。

 1970年11月広島県三原市で解体されて34年の生涯を終えた。きわめて強い保存運動があったが実現せず、錨の1つは三原市の内港東公園に、錨のもう1つとコンパスは下関市の火の山公園に、鐘が東京の交通博物館に保存されている。

 

鉄道省関釜連絡船

 山陽鉄道時代の1903年9月11日開設され、1904年12月鉄道国有化とともに鉄道院に引き継がれた。日本と朝鮮・満州を結ぶ大動脈であることもあって、年々乗客・貨物は増加した。これに対応するため景福丸・徳寿丸・昌慶丸を建造して就航させていたが、1932年に「満州国」が建国されると渡航制限が加わるくらいに逼迫したことから、更なる輸送力の増強が必要となりより大型の新造船を投入することになる。金剛丸は、この新造船の第1船として、1936年10月三菱重工業長崎造船所で建造された。

 第二次世界大戦前の鉄道省(日本国有鉄道の前身)が本州の下関から日本領の朝鮮半島南端の釜山の間を運航していた鉄道連絡船である。

 なお敗戦後は、しばらく大韓民国との間に国交がなかったこともあって同区間をする航路は存在しない状態が続いていたが、1965年の国交成立後の1970年(昭和45年)6月に25年ぶりの日韓定期航路として関釜フェリーが就航した。

下関鉄道桟橋に停泊する景福丸 

 「工マーク」のタグボートを発見。しかし、下関港では「青?港」の謎は解けません。博多港でも同じですね。

 

景福丸

 この写真に写っている景福丸の船名の由来は、朝鮮王朝の王宮景福宮の名をとり命名されている。

 

船歴

 大正2年(1913年)、関釜連絡船には高麗丸と新羅丸が就航していたが、同年に関釜連絡船、朝鮮鉄道、南満洲鉄道経由で日中連絡運輸が開始されると旅客は日々増加し輸送改善が必要となってきた。

 大正9年(1920年)、そのために旅客船3隻の新造が計画された。

 大正11年(1922年)、景福丸はその第1船として、三菱重工業神戸造船所で建造され、同年就航した。速力は20ノット近くであり、下関と釜山間は昼8時間、夜9時間に短縮された。

 大正11年、関釜航路に就航していたが、イギリス皇太子エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドリュー・パトリック・デイヴィッドが来日した際に、瀬戸内海遊覧のお召船として使用されている。また、関東大震災により東海道本線東京 - 三島間が不通となったさい、同年9月7日から10月28日まで一般客、被災者、救援物資の海上輸送に従事している。

 昭和13年(1938年)1月23日、下関海峡巌流島付近で徳寿丸と衝突し、この事故で徳寿丸は浸水のため沈座(7月復帰)。

 昭和20年(1945年)7月、関釜航路、博釜航路で運用されていたが、機雷封鎖で航行できなくなる。

 同年7月14日、函館にてアメリカ海軍艦載機の空襲により全連絡船12隻が被害を

受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態となる。

 

終戦後

 昭和20年(1945年)8月20日より景福丸は青函航路に転属し活躍した。

 昭和21年(1946年)1月15日より青函連絡船の一等と二等がGHQ専用となる。

 昭和22年(1947年)より洞爺丸型が順次就航する。

 昭和24年(1949年)7月30日に景福丸終航し、函館桟橋南側岸壁に係留された。

 昭和25年(1950年)1月25日、函館桟橋に係留された景福丸は、内装を改装し海

上ホテルとして使用されることになる。実際にはホテルといっても福祉事業的な性

格が強く、鉄道弘済会が船を借り受けての営業であった。これは、戦後の混乱期、

国鉄では空襲で命を落とした乗船員の遺族や人員整理による大量の解雇者の救済が大きな問題となっており、これらの人々の働く場所を確保するためであったという。

 この海上ホテルの設備は、客室は和室5室、洋室14室。収容人員は一般客46人、団体客280人であった(1954年当時)。函館駅に近いことともの珍しさもあり、利用者は多かったという。

 昭和31年(1956年)、船体の老朽化により維持費の増大などで赤字経営となり、休業となる。  

 昭和33年(1958年)、放置されていた船体が、解体され、函館港の中央埠頭が造成される際に埋められた。

その後

 鉄道弘済会(後に北海道キヨスク)では、海上ホテル休業後の1956年に函館駅にほど近い一角に「景福ホテル」の名称で旅館業を再開したが、同ホテルの敷地を含めた一体の区画に「函館ハーバービューホテル」が建てられた1988年以降は、同ホテルの1階の一角で「けいふく」という土産物店を営んでいた。なお、現在は場所こそ変わらないものの2004年に「スーベニア函館店」という名称に変更されてしまった。

1922年(大正11年)5月18日就航、1944年(昭和19年)10月2日から博釜航路。

1945年(昭和20年)8月23日青函航路に転属就航。

昭和20年(1945)7月14日

米国海軍艦載機の空襲により全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態となる。

景福丸

青函連絡線・羊蹄丸・解体の様子2012/10/03

 という歴史があるということは、「青?港」は青森港なのかもしれない。

←左の写真は昭和30年代初期、函館港で連絡船を押すタグボートです。煙突には「工マーク」のファンネルマークが付いてますよね。

 残念ながら青森港での写真は見つかりませんが、青森側にも「工マーク」のタグボートがあっても不思議ではありません。

青函連絡船「羊蹄丸」が昭和63年(1988年)終航し、 日本海事科学振興財団(船の科学館)が購入後、数々のイベントに使用された。この動画の時期ははっきりしませんが、東京の船の科学館に展示されていた頃か、平成24年(2012)4月27日〜6月10日に 新居浜市制施行75周年記念、新居浜高専創立50周年記念事業の一環として、新居浜東港黒島埠頭にて最後の一般公開が行われた頃まで船内上映されていた作品だと思われます。

 羊蹄丸は2012年(平成24年)7月から翌年4月にかけ、香川県 多度津町で解体された。

参考資料:太政官

    :工部省

    :逓信省

    :鉄道省

    :日本国有鉄道

    :連合国軍占領下の日本

    :金剛丸型

    :興安丸

    :関釜連絡船

    :青函連絡船

    :景福丸

    :羊蹄丸

青森市

 そういえば、親父は南氷洋から帰ってくると夜眠れないと言っていた。理由を聞くと揺れないからと言う。

 「え?地震でもこないと揺れないよ」と子供心に話していたことを思い出しました。そして時々青森へ海を見に行ってましたね。きっとその時に撮った写真なのかもしれません。

青函連絡船

景福丸

錦城丸入港

ラジオブイ

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