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操舵室 レーダー

おやじメモより

 運転室と人 出航後間もない風景 母港日本を離れて行く 

 運転室でも間違いではないけど、やはり船の場合は操舵室でしょう。

 この写真は昭和26年から28年頃に撮られた二代目日新丸の操舵室のようです。

 年代的にはちゃんとしたレーダーが搭載された後でしょう。  

 

レーダー

 

 戦後第1次南氷洋捕鯨(1946/47年漁期)に参加した日本の捕鯨母船にはレーダーが付いていなかった。今なら考えられないことだが、そこは敗戦直後なのです。

 

 南氷洋捕鯨ではGHQから許可が下りたものの、監督官を各母船に同船させることが義務付けられたので、第一次南氷洋捕鯨では大洋漁業の第一日新丸と日本水産の橋立丸にGHQから監督官が送り込まれていた。

 この同船したGHQ側の監督官が帰港後「レーダーも付いていない捕鯨母船で操業するのは危険である」という理由から、次の南氷洋捕鯨の乗船を拒否したのでした。

 日本にとっては様々な準備を重ねて、やっと捕鯨を復活させたのに、諦めるわけにはいかなかったが、遺憾戦レーダーは戦勝国の米国から見れば、漁業用といえども懸念する道具の一つなのです。

 

 ではどうするか?

 

 GHQに接収されていた廃棄処分される予定の二二号電探が注目され、昭和22年(1947)の第二次南氷洋操業に際しては両船団に搭載し、南氷洋に向けて出港した。

 といえば聞こえはいいのだが、同乗したGHQ側の英国武官からは「日本はこのレベルのものを使っているから戦争に負けたのだ。本国ロンドンではアンテナが回転して映像が画面に映るような、もっと良いものが市販されている」といわれる始末。

 また、昭和23年の第三次南氷洋捕鯨出港前、捕鯨母船を視察した旧海軍軍人でもある高松宮宣仁親王は「このレーダーは効果があるかね?僕もレーダーを使って知ってはいるが、故障が多く(性能的にも)、小さな氷山などには効果がないのではないか」との懸念をコメントとして残している。

 実際に島嶼に異常接近してしまうなどの事故も起きているが、その際は電探の性能以前に故障中であった。

 夏の南氷洋は太陽が沈まない。だからと言っていつも視界がいいわけではない。雪も降れば強風の日もある。少し季節がずれれば真夜中は暗い。氷山が流れてくることもある。衝突を回避するにはレーダーが必要なのだ。

 二二号電探は、なかなか使えないレーダーだったが「予想外の素晴らしい効果があった」とされる文面もあり、実際に二二号電探を装備する船は増えた。だが「予想外の」といわれるほどだから、高く期待されてはいなかったのだろう。それでも各母船は、船舶用レーダーの使用が条件付で許可される昭和25年1月まで使用されていた。

 この間、二二号電探の保守点検と部品供給を行ったのは、旧帝国軍時代の開発者や製作担当者らであった。

 各捕鯨母船は昭和25年の第5次南氷洋捕鯨(1950/51)からは輸入品レーダーが使われ、昭和26年(1951年)8月に、漸くGHQから船舶用レーダーの製造許可が下りた

 GHQからの許可を受け,翌年の昭和27年(1952年)に日本初の国産レーダーが日本無線によって商船用大型レーダーNMD-401形が販売された。1号機は航海訓練所殿練習船「北斗丸」に装備される。

 おやじが撮った二代目日新丸にはどんなレーダーが装備されたのかわかりませんが、写真中央の奥に写っているるのがレーダー指示器ではないかと思われます。

 

出港

33. 相馬貞男捕鯨一年生 ズック

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