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綿城丸にて 第二天洋丸

 綿城丸は戦後初の捕鯨母船として長崎を出港した元の第一日新丸です。

 昭和29年11月の赤道ということは、捕鯨母船錦城丸として初南氷洋捕鯨に出港したばかりの往路という事になります。第 9 次南氷洋捕鯨ですね。

 


 三菱重工業長崎造船所で大阪商船の石油タンカーである3TL型戦時標準船大攬丸(だいらん丸)として建造中に長崎市への原子爆弾投下に遭い放置。終戦後の南極海捕鯨再開に伴い、大洋漁業が購入して捕鯨母船へ改造し、1946年10月15日に完成させた。

船歴
 1946(昭21)  建造中に大洋漁業(東京)に売却、捕鯨母船(第1350番船)として完工、
        第一日新丸 NISSHIN MARU No.1 と改名。同年12月戦後第一次南氷洋
        捕鯨に長崎より出港。
 1948.8(昭23)  主機をD 三井B&W 5,400BHPに換装
 1951.6.11(昭26)油槽船に改造、錦城丸 KINJO MARU と改名。B.V.船級取得改造工事
 1954.4.30(昭29)再度、川崎重工業(神戸)で捕鯨母船に改造。
 1958.10(昭33) 主機をD 川崎M.A.N.K9Z 70/120C 8000BHPに換装。
 1965.3(昭40)  解体のため三菱商事(東京)に売却、大阪で解体。

おやじメモより

 昭和二十九年十一月赤道にて 右国元 四国香川
               左日下 茨城

総トン数:11781トン
全  長:150.8メートル

全  幅:20.4メートル

喫  水:12.0メートル

 そして丁度このころ、第二天洋丸が四日市港を出港しました。

 当時乗船していた田村氏のご子息から頂いた「とうさんの日記帳」によると下記の通りです。

 多くの中積船の中でも大洋商船の第二天洋丸はタンカーとして活躍していました。

 この年、第二天洋丸は四日市港を出港して、まずは中東のアバダーンに向かいます。

 ここで捕鯨船団が使う燃料を積み込んで南氷洋へ向かいます。

 南氷洋では捕鯨船団に燃料補給し、捕鯨母船から鯨肉や鯨油を積み込み、そのまま鯨油をヨーロッパへ運び、中東で原油を積み込んで日本へ帰港します。

 昭和30年1月23日、それぞれの親父を乗せた錦城丸と第二天洋丸が接近していますね。

 大西洋に浮かぶアゾレス諸島は火山を起源とする九つの島があり、その一つであるピコ島には、標高2351mのピコ山がそびえ立っている。

 この高さはポルトガルの最高地点でもあり、遠洋漁業や捕鯨の基地になったり、航海の目印になっている。

 

三大運河

 スエズ運河、パナマ運河、キール運河。

 第二天洋丸は全部使って動いていますね。

 

不測の事態

 昭和30年12月。種子島付近でテールシャフト(スクリューが付くシャフト)折損。

 自力航行出来たのだろうか。代わりの船はどうしたのだろう。

 

Google Earth

 四日市港からの一航海をGoogle Earth で追いかけてみました(2時間23分)。およそ7万8446kmの航行です。

 乗船していた船は違いますが、田村氏とおやじは同じ南氷洋で仕事をしていた事になりますね。

 3月15日、日新丸と第二天洋丸がローグサイド中。

 鯨油を受け取ってヨーロッパへ出発。

ラジオブイ

東京見物 皇居

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