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第三日新丸と日章丸三世 昭和37年

主に日章丸事件のページです
ゴミ箱
ブランコ

おやじメモ

 なし

 メモはありませんが拡大してみて分かりました。出光の日章丸三世と第三日新丸です。

 場所は佐世保の第四岸壁に日章丸三世、第三岸壁に第三日新丸が停泊しています。

 日章丸の手前のゴミ箱をよく見ると、ペンキが入っていた空き缶が山のように捨てられているようです。左の看板には塗装係と書いていますし、日章丸には作業用のブランコがまだぶら下がっています。完成間近なのでしょう。

 この写真の手前のタンカーは、出光の日章丸三世でしたね。見学させて頂きながら撮ったのでしょう。

日章丸三世
起工 1961(昭和36)年11月18日
進水 1962(昭和37)年07月10日
竣工 1962(昭和37)年10月07日
その後 1978年解体

 

 という事ですから、この写真は進水の昭和37年07月10日から竣工の10月07日までの間に撮られた写真という事になります。この時期なら納得です。

 このあと第三日新丸は、南氷洋(第十七次南氷洋捕鯨)を目指して佐世保港を出港したことでしょう。 

 日章丸の設計は佐世保重工業と石川島播磨重工業が協同で行い、契約船価は50億2,200万円(当時)。 1962年10月7日に佐世保重工業佐世保造船所で竣工した当時は世界最大のタンカーであり、また単機最大出力28,000馬力の蒸気タービンは、タンカーに搭載されたものでは最大であった。 竣工後、ペルシァ湾から出光興産徳山製油所への原油輸送に従事したが、1978年に台湾の高雄で解体された。
 日章丸(にっしょうまる)は、出光興産の子会社である出光タンカーが所有・運航していた原油タンカーである。 

 総トン数  74,869 トン
 載貨重量トン数 132,334 トン
 満載排水量 163,360 トン
 全長 291.0 m
 垂線間長 276.0 m
 型幅 43.0 m
 型深 22.2 m
 吃水 16.57 m
 主機 石川島播磨重工業製蒸気タービン 1基
 出力 28,000馬力(最大)
 25,500馬力(常用)
 航海速力 16.25ノット
 最高速力 17.19ノット
 乗員 71名

 本船の竣工直後の姿を克明に追った短編映画『日章丸』が、竣工の翌年(1963年)、本船の船主である出光興産の企画の下、東京シネマ(現・東京シネマ新社)の手により製作された。
http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/71/

日章丸事件

日章丸事件

 時代は「黒いダイヤ」と言われた石炭から「油の一滴は血の一滴(1917年にフランスの首相ジョルジュ・クレマンソーが米国大統領ウィルソンに宛てた電文)」と言われた石油に移り変わろうとしていた。国を豊かにするにも戦争をする為にも石油を確保しなければ戦えないのである。

 アメリカの鉄道員だったエドウィン・ドレークがペンシルベニア州オイル・クリークで機械掘りに成功する。これが世界の石油産業の始まりとなる。 他国は米国から石油を買わなければならなくなった。
 イギリスの探検家であるウィリアム・ノックス・ダーシーが、ペルシャ国王のモザファール・デイン・シャーから国土の3分の2に及ぶ広大な地域の石油掘削、販売、輸出を行う権利を買った。条件は8000ポンドと事業純益の16%を支払うというものだった。
 探検家ダーシーはついにペルシャ南西部のアスマミ山のマイダン・ナフトゥーンに中東初の大油田を掘り当てた。
 ダーシー (William Knox D'Arcy) がアングロ・ペルシャン・オイル・カンパニー (APOC) を設立、イランの油田操業を開始。
 第1次世界大戦勃発。この戦争は先進諸国に石油の重要性を認識させた。イギリスの海軍大臣だったウインストン・チャーチルは、アングロ・ペルシャ石油会社の株を52.55%(200万ポンド)を買収し、半国営会社とした。
 1950年代までにイランの地下から吸い上げた石油による利益は、初期投資額の400倍を超えるとも言われているが、イラン国民は石油の恩恵をほとんど受けていない。純益の16%もうやむやにされる。どこが紳士の国イギリスなんでしょう。
 ついにイランが石油の国有化を宣言。反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明する。

 同年日章丸(二世)竣工。重量トン数:19,074トン 当時日本最大のタンカーが建造された。
 6月19日、イランの原油を積んだイタリアの「ローズ・マリー号」が、イギリスの軍艦に拿捕され、イギリスの直轄植民地であるアデンに強制入港させられ、そこで積み荷を差し押さえられた。

 敗戦した日本では米国GHQによる実質的な間接統治下にあり、石油を自由に輸入する事ができないでいた。それが戦後復興の足かせにもなっていた。

1859年

 

1901年

 

 

1908年

 

1909年

 

1914年

 

 

 

 

 

1951年

 

 

1952年

 

 

当時のセブン・シスターズ(メジャー)
1, スタンダードオイルニュージャージー(後のエッソ、その後1999年にモービルと合併しエクソンモービルに)
2, ロイヤル・ダッチ・シェル(オランダ60%、英国40% )
3, アングロペルシャ石油会社(後のブリティッシュペトロリアム、2001年に会社名の変更でBPに)
4, スタンダードオイルニューヨーク(後のモービル、その後1999年にエクソンと合併してエクソンモービルに)
5, スタンダードオイルカリフォルニア(後のシェブロン)
6, ガルフオイル(後のシェブロン、一部はBPに)
7, テキサコ(後のシェブロン)

 メジャーと呼ばれるセブン・シスターズに世界の原油を牛耳られていた時代、どこかと繋がっていないと石油を買えなかった。日本は当然アメリカから買っていた。というか、買うしかなかったのだ。

 後にアーバーダーン危機と呼ばれたイランに対するイギリスの軍事力による経済制裁は、日に日にイラン国民を苦しめていた。

 日本政府としてはアメリカにはもちろん、翌年の1953年(昭和28年)6月2日はエリザベス二世女王の戴冠式に天皇の名代として皇太子の出席が決まっており、イギリスにも口を出せなかった。

 こんな背景の中で出光興産創業者である出光佐三は思った。
 
 泥棒はイランではなく、むしろイギリスではないか(海賊と呼ばれた男)、と。
 「世界の石油業界は『七人の魔女』と呼ばれる欧米の石油会社に長い間支配され続けてきた。イランはそれに立ち向かう勇気ある国である。イランはそのため厳しい経済封鎖を受け、彼を助ける者は誰もいない中、世界から孤立し、困窮に喘いでいる。」
 「イランの石油を買おう」

 3月23日、日章丸二世が神戸港を極秘裏に出港した。行き先を知って

いたのは船長と機関長の二人だけであった。

 4月05日、コロンボ沖で暗号電文を受信し、全乗組員へ目的地を告げ、無線封鎖をする。当時世界最大の大型タンカーだった為、本当に
アーバーダーン港で原油を積み、イギリス海軍に拿捕されないで帰国できるかどうかは誰にも分からなかった。

1953年

日章丸二世

1953年

 4月10日、イギリス海軍の警戒網をかいくぐり、イラン人が歓喜で出迎える中、世界最大(当時)の日章丸二世がアーバーダーン港に入港。
 翌日の地元新聞はイラン経済に希望を与えるものだと賞賛と歓迎の報道をした。一方、AFP、ロイターも日章丸入港を報道し、世界が知ることとなった。

 

 4月15日、ガソリンや軽油約2万2千kl積み込みアーバーダーン港を出港。船底部を擦りながら浅瀬を突破!ガソリンは米国よりも良質だった。

 4月16日、夜陰に紛れてホルムズ海峡を通過し、

日本海軍仕込みの之字航行(敵のレーダーに映っても、どこへ向かっているのか分かりにくくする方法)に、さらに工夫を加えた新田式デタラメ航行をしながら、イギリス海軍によるアラビア海の警戒網をくぐりぬける。

 4月26日、マラッカ海峡付近で待ち構えているであろうイギリス海軍駆逐艦三隻をかわすために大きく迂回した日章丸は、スンダ海峡を通過する。
 同日、夜陰に乗じてジャワ海の危険な暗礁海域を通過しイギリス海軍を回避。

 4月29日、ガスパル海峡を通過。

 4月30日、南シナ海に到達し、無線封鎖を解除、出光と連絡を取る。これでイギリス海軍が予測した日章丸の航路を、ことごとく裏をかいたことになる。

 5月07日、日章丸に撒かれたイギリスは即座にアングロ・イラニアン社より仮処分申請を東京地裁に提出した。

 5月09日、川崎港に到着。同日、東京地裁にて第一回の口頭弁論開かれる。通産省玉置次官、通産省はこの紛争に巻き込まれたくないとの見解を記者に述べる。

 5月13日、陸揚げを完了し、船の差し押さえを逃れる。
 5月14日、イランに向けて再度出港し、貿易を既成事実化する。
 5月16日、東京地裁にて第二回口頭弁論開かれる。
 5月27日、東京地裁、仮処分申請を却下。
 5月27日、日本外務省が政府は何ら関与しない旨を発表。
 6月    イラン政府、出光との当初の契約を見直し、石油価格を大幅減額で提供する旨を発表。
 6月07日、アーバーダーン港に再度到着。イラン政府高官、および数千人の民衆の出迎えを受ける。

バカヤロー解散

 

 因に1953年(昭和28年)、国会ではこんな事が有った。

 2月28日、衆議院予算委員会で吉田茂首相と社会党右派の西村栄一議員との質疑応答中に起こった「バカヤ

      ロー」発言。
 3月14日、衆議院バカヤロー解散。
 4月19日、第26回衆議院議員総選挙。

問題となった、吉田と西村の質疑応答の内容。
西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求め

   になりましたか」
吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリ

   スの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われて

   おるから、私もそう信じたのであります。(以下略)」
西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではな

   い。(中略)イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、(中略)日本の

   総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。(中略)やはり日本の総理大臣としての国際情勢

   の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」
吉田「只今の私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁致したのであります。私は確信するのであります」
西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」
吉田「無礼なことを言うな!」
西村「何が無礼だ!」
吉田「無礼じゃないか!」
西村「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大

   臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……」
吉田「ばかやろう……」(自席に戻る際ボソッと呟くように吐き捨てる)
西村「何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。(中略)取り

  消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある」
吉田「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」
西村「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取り消された上からは、私は追究しません。(以下略)」

 通産省がこの紛争(日章丸事件)に巻き込まれたくないと記者に述べたり、日本外務省が政府は何ら関与しない旨を発表したり、衆議院はバカヤロー解散ですよ。今も昔も日本の政治は変わってませんね。自分に火の粉が降りかからなければそれでいいのか。井の中の蛙だ。

新セブンシスターズ
1 サウジアラムコ(サウジアラビア)
2 ペトロナス(マレーシア)
3 ペトロブラス(ブラジル)
4 ガスプロム(ロシア)
5 中国石油天然気集団公司(中国)略称:CNPC、中石油、ペトロチャイナ
6 イラン国営石油(NIOC)(イラン)
7 ベネズエラ国営石油会社(PDVSA)(ベネズエラ)

 日本の政治は変わってませんが、時代は変わるものです。歴史は生きている人達がつくるものだから。

出光佐三 日章丸

Tensaw(YTB-418)

佐世保

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