お や じ の ア ル バ ム
横浜ドック 1

おやじメモより
横浜ドックにて
横浜ドックといえば、現在(2015)の「横浜みなとみらい21」にあった「三菱重工業株式会社横浜造船所」の事です。
歴史
1872年(明治 5年) - 新橋 と横浜(現在の
桜木町駅) 間に、日
本初の鉄道が開通。
これによって横浜港
の船舶量が大幅に増
え、諸外国からも港
の整備を求められる。
1886年(明治19年) - 横浜財界人の有力実
業家原六郎らが「横
浜桟橋会社盟約」を
結成し、計画を英国人H.S.パーマー氏に委嘱する。
パーマーはドックや倉庫を含む総合的な築港事業を提案。
1888年(明治21年) - 外務大臣大隈重信は、この民間主導の築港計画を国家的事業とすることを閣議に求めた。
築港計画は内務省のオランダ人技師デ・レーケと外務省の押すパーマーが再設計を行い、内
務省と外務省との激論の末、 「鉄桟橋」 「東北水堤」 「馴導堤 」 を主要施設とするパー
マー案が閣議決定された。
1889年(明治22年) - 横浜船渠が設立
1891年(明治24年) - 「有限責任横浜船渠会社」設立。
1893年(明治26年) - 「横浜船渠株式会社」となる。しかし、パーマー氏の急逝や不況が重なり、計画を縮小せ
ざるを得ず、築造を1号と2号のドライドックのみとした。
ドライドックの設計はフランス人技術者から学んでいた海軍技師恒川柳作が行い、小さい
2号ドックから着工した。
1897年(明治30年) - 2号ドック完成。
1899年(明治32年) - 1号ドック完成。
1930年(昭和 5年) - 氷川丸竣工。
1935年(昭和10年) - 三菱重工業に吸収合併。三菱重工業株式会社横浜船渠となる。
1943年(昭和18年) - 三菱重工業株式会社横浜造船所と改称。横浜船渠の名称が消える。
1973年(昭和48年) - 2号ドック使用停止。
1980年(昭和55年) - 造船所の本牧・金沢地区への移転決定。
1983年(昭和58年) - 移転完了。跡地は横浜みなとみらい21として再開発される。
1985年(昭和60年) - 1号ドックと周辺が日本丸メモリアルパークとして整備され、日本丸を浮体展示開始。
1993年(平成 5年) - 2号ドックが改装され、ドックヤードガーデンとしてオープン。
1997年(平成 9年) - 2号ドックが国の重要文化財に指定される。
2000年(平成12年) - 1号ドックが国の重要文化財に指定される。

横浜市の地図を見ると、確かに1号ドックと2号ドックの場所は分かるのですが、上の写真と位置関係が違うような気がしたので、現在の地図上に横浜市が提供している昭和39年の地図から当時の港の形を重ね合わせてみました。少しズレてます。
ついでに当時敷かれていた鉄道のレールを重ねてみました。時代の活気が伝わってくるようですね。
では、どうしてここだけ地図上で合致しないのだろう。
単純に誤差なのか?
2号ドックの場所ずれてない?
横浜船渠全景(1935年以前の撮影)
横浜港の発展を支えた「旧横浜船渠第2号ドック」によると
1988(昭和63)年に横浜市と三菱地所との共同調査研究による構造診断の結果、底盤の浮き上がりなどを防ぐために解体復元し、ランドマークタワー計画の中で保全活用を図ることとなった。
解体調査では、柳作による設計図と実測値との誤差が1%にも満たないことが判明し、当時の施工が正確に行われていたことを立証した。
なるほど、一度解体復元されてるわけですね。2号ドックが元有った場所にはランドマークタワーがそびえ立っているので、少しずらして建設されたのでしょう。
尚、2号ドックは平成5年(1993)、横浜ランドマークタワーの敷地内に「ドックヤードガーデン」として再生され、平成9 年(1997)12月に国重要文化財に指定されました。
おやじの写真に写っている短い大砲のようなものは、ロープをかけて使う何かの道具のようです。
後に分かるのですが、この写真の撮影場所は第一ドックに入っている錦城丸の船尾です。
背景に写っている白線入りの船舶は、ばあじにあ丸(Virginia Maru)です。
さらに奥に写っている船は、リベリア船 KYMO号。
参考資料
wikipedia から、横浜船渠、ヘンリー・スペンサー・パーマー
● ドックヤードガーデン施設概要 / 横浜ランドマークタワー
● 旧横浜船渠株式会社第二号船渠(神奈川県横浜市西区 / 郷土文化材コレクション)
● 横浜港の発展を支えた「旧横浜船渠第2号ドック」
● 横浜みなとみらい21
● ドックヤードガーデン施設概要
横浜ドック2 ばあじにあ丸
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