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写真キャッチャーボート

長浦港に16Tがいた 長浦港と大洋漁業

おやじメモ

  横須賀 田の浦港

 16Tがいました。感動です。
 16Tは、以前紹介した第十六利丸の事です。
 やっぱりオリジナルの塗装の方がいいですね。
 写真を拡大してみると、高いマストに設置されている見張り台にも番号が記されています。
 手前から16T、XX、12Tか2T、XVです。ギリシャ数字を使っているのは関丸なので、手前から「第十六利丸」「第二十関丸」「第十二利丸か第二利丸」「第十五関丸」と並んでいます。

 奥に18?のキャッチャーボートも写ってますね。第十八文丸かもしれません。

 さて、写真をよく見ると、キャッチャーボートの手前には車が並んでいます。さらに空き地があって鉄路があり、道路があります。帰港したばかりなのか、出航前なのか、そこはよく分かりませんが潮の香りが届きそうな写真ですよね。
 場所が田浦港ですから、この鉄路はかつて
旧日本海軍が敷いた引き込み線だと思われます。消えつつ有る歴史とは言うものの、横須賀にはまだ一部残っています。

田浦の引き込み線

 まずは「トワイライトゾーン 田浦のこと」さんの旧水路部軍機第214号 横須賀軍港西部 昭和15年10月刊の地図資料提供 海上保安庁水路部 (現在:海上保安庁海洋情報部) に描かれている引き込み線に赤色を塗ってみました。

 実際はほとんどの倉庫に引き込まれていたようなので、図よりも多く敷かれていたと思われます。

 

 次の図は「高校生自転車日記」さんが紹介していた昭和21年(1946年)のアメリカ発行の地図です。終戦翌年で、上図の6年後です。
 未使用や廃線云々というよりも、かなり大雑把に描かれていますね。代表的な鉄路だけを描いているものと思われます。

 

長浦ふ頭

 不思議な事に昭和35年(1960年)7月30日発行の国土地理院(田浦)の地図には長浦ふ頭が全く載っていません。

 しかし、4年前の昭和31年の空撮写真には、半分近く埋め立てられている長浦ふ頭が写っています。どういう事なんでしょうね。

 昭和38年(1963年)の航空写真でも、埠頭の中さがそれほど伸びていません。とてもゆっくり工事が進んでいます。という事は、おやじが写真を撮った昭和32年は、ほぼ31年の航空写真と変わらないと思われます。

 その後も使用されながら建設が進んだと思いますが、ほぼ完成したように見える航空写真は、昭和41年でした。

 

ガントリークレーン

 横須賀には昭和50年2月まで、横須賀市本町3丁目の住友重機械工業横須賀分工場内に、数々の軍艦を造船した巨大なガントリークレーン(高架起重機)がありました。横須賀のシンボルでしたが、老朽化と造船不況には勝てなかったようです。

 そして平成25年(2013年)、船越町にあった横須賀最後のガントリークレーンが姿を消しました。大正3年(1914年)に造られたこのガントリークレーンは、高さ約20メートル、長さ約35メートル、幅約20メートルあり、旧砲塔工場から海に向かってのびていました。

 戦前戦中、砲塔工場では旧海軍の軍艦に搭載する大砲が作られていた。その積み下ろしに使われていたという。運搬船や鉄路で本町3丁目の造船所へ運ばれていたのでしょう。
 

出典:国土地理院ウエブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=33483

撮影年月日:昭31年(1956)3月10日

撮影地域:横須賀市

撮影計画機関:米国

 おやじが撮った写真の中に、そのガントリークレーンの屋根が写っているとゆめみ〜あい日記のacj 」さん

に教えていただきました。(2013年10月)

 というわけで昭和32年に、捕鯨船の手前に車を駐車でき、手前に空き地があって、引き込み線があって、道路があって、奥にガントリークレーンが見える場所は、ここしか無いと思われます。

 6×6カメラの縦長写真なので、高さ6cm×幅4.5cmで視野角を計算すると34°になります。

ガントリークレーンの屋根

長浦港
ガントリークレーン

昭和21年(1946)
  4月 ・

 

  5月 ・
  8月 ・

 

 10月 ・

昭和22年(1947)
  3月 ・
 10月 ・
 11月 ・

昭和32年(1957)
 10月 ・

昭和43年(1968)
     ・

昭和52年(1977)
     ・

昭和60年(1985)
  9月 ・

昭和62年(1987)
  3月 ・


長浦港の米軍による接収が解除。長浦港及び旧海軍軍需部等の施設が、緊急食糧受入れ港施設として開放(旧軍需部の倉庫群30棟が注目される)
市民の食糧事情が悪化。第1回進駐軍放出食糧の特配が行われる
さきに相模港運(株)が旧海軍軍需部施設の一時使用許可を受けた土地、建物、設備をもとにして、相模港運(株)を中心に神奈川県倉庫業者と東京湾倉庫(株)を設立
長浦港桟橋落成式

 


太洋漁業、捕鯨基地として旧軍需部施設の一部と長浦港の使用を許可される
大洋漁業が旧海軍軍需部跡に横須賀工場を設置
第1次南氷洋捕鯨船団(大洋漁業)が長浦港を出港。母船(日新丸)、冷凍船1、捕鯨船9


大洋漁業(株)、第12次南氷洋捕鯨船団の日新丸が長浦港を出港


大洋漁業(株)捕鯨部横須賀事務所所轄の捕鯨船団2船団から1船団に減少

 


捕鯨規制のため長浦港への捕鯨船団の入港が減少


大洋漁業(株)横須賀工場を閉鎖(長浦町)


大洋漁業(株)横須賀工場跡に大洋ホエールズが野球練習場(現在は横浜ベイスターズ総合練習場)を設置

(母船は長崎から)

錦城丸(元第一日新丸)、二代目日新丸、二代目第二日新丸

 田浦できごと年表を読んでいると、長浦港から出港したのは1船団のように読めますよね。本当のところはどうだったのだろうか。大洋漁業は第十二次南氷洋捕鯨から3船団体制で挑んでいました。

 昭和32年の10月、二代目第二日新丸は、同年5月にダーバン連合捕鯨会社からアブラハム ラーセンを購入し、神戸で改良整備を施していたので、神戸から出港ということも考えられます。

 また、この写真を撮ったおやじは、この頃錦城丸に乗船していました。 

 一般的には、マルハの母船を皆日新丸と読んでいたでしょう。

文丸と利丸

昭和32年の自動車

錦城丸

この謎のバス、京都なの?

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