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日新丸 赤道祭 相撲大会 その1 セレベス島

おやじメモより

 

 相撲大会 赤道祭 十日でセレベス島に近づく

スラウェシ島

           

1905年     :島全体がオランダ領東インドの植民地となった。

1928年10月27日:インドネシア青年会議が開催され「青年の誓い」が採択された。

     ・われわれインドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します

     ・われわれインドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します

     ・われわれインドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用します

1942年 1月11日:旧日本海軍特別陸戦隊が約300年続いたオランダ領タラカンとセレベス島ミナハサ半島東岸のケ

        マに上陸。蘭印作戦が開始された。

     11日:午前4時20分、西岸マナドにも上陸。

     11日:午前9時30分、堀内豊秋海軍中佐が率いる海軍落下傘部隊第一次降下隊

        の323名(28機)がトン湖畔のランコアン飛行場に降下。マナドを

        中心とするミナハサ地域の蘭印軍を制圧。

     1月12日:園部竹次郎特務中尉以下173名の第二次降下隊が降下。

     1月24日:蘭印空軍基地のあったケンダリーへの上陸・占領。

     2月  8日:一等駆逐艦「夏潮」がマカッサル攻略作戦中に敵潜水艦の攻撃を受けて

        沈没。

     2月  9日:マカッサルの南方約30キロにあるアエンバトバト海岸に上陸。

        同日の昼12時半にはマカッサル市街を制圧。

        同日深夜にはマロスの飛行場を制圧。(アエンバトバト海岸を

        上陸地点に選んだのはマカッサル港が機雷で封鎖されていたた

        めとされている。)

     2月28日:現地住民向けの簡易日本語学校の開設。

     3月10日:オランダ軍全面降伏。日本の民政部が設置。

     4月下旬:市役所開設。

        南洋貿易会社の山崎軍太氏がマカッサル市長に就任。助役にインドネシア人を登用するなどの配

        慮がされている。日本は、インドネシア人を差別し弾圧してきたオランダとは逆の政策と実行し

        た。オランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動の活動家を

        解放。

1943年10月     :日本軍の協力の下、インドネシア人指揮官が率いる「民族軍」郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織。

1944年  9月  3日:将来の独立を認容する「小磯声明」を発表。

1945年  3月  :東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。

      8月  7日:スカルノを主席とする独立準備委員会が設立。

      8月15日日本敗戦ジャカルタの街に日本が連合軍に降伏したという噂が拡がった。スカルノとハッタは

          山本茂一郎軍政監から正確な情報を得ようとしたが徒労に終る。

       15日:午後2時半頃、スカルノとハッタは前田精海軍少将を訪ねたが、前田は公式な情報がないとい

          理由で回答を留保した。

      8月16日:早朝、スカルノとハッタは、無傷の日本軍と敵対してでも即時に独立宣言すべきと主張する青年

          グループに拉致された(レンガス・デンクロック事件)。二人は青年たちを説得する。

      8月16日:23時頃、スカルノとハッタ等は前田精海軍少将邸に集まり、既に起草されていた憲法前文の独立

          宣言に関連した箇所に基いて独立宣言を起草し採択した。

      8月17日:スカルノとハッタは正午までに解放され、独立宣言の準備を整える為にジャカルタへ向かった。

      8月17日:10時頃、スカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカ

         ルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表し、スカルノを

         首班とするインドネシア共和国が成立した。

      18日:独立準備委員会の第1回会議が開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによっ

        て、この軍政当局の主導による独立準備は中止された。

      22日:人民治安団が政府布告によって結成。日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将

         兵、兵補らに参加を呼びかけ、治安維持や急進化する青年層の取り込みを目的としていた。

      10月5日:人民治安軍結成。目的は10月になって本格的に進駐してきたイギリス軍および旧宗主国のオラン

         ダ軍に対抗するため。人民治安軍は旧蘭印軍将兵に対してもこれへの参加を呼びかけ、純然たる

            軍組織を目指した。

         インドネシア共和国共和国側にはこの正規軍以外にも複数の非正規の武装組織が誕生し、その活

        動には政府の統制が及ばなかった。

        一方、大戦に敗れた日本軍は連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま

        陸する連合軍部隊に引き渡すことになった。インドネシア人の独立派への武器引渡しも厳禁とさ

        れ、この命令を守るために独立派との間でスマラン事件などの衝突が生じた。この衝突で日本側

        に187人、インドネシア側に2000人近い犠牲者が出た

        また他方では、日本軍部隊が上官の命によって兵器の集積庫を開放し、横流しした例もある。そ

        の結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など

        多くの資材が独立派の手に渡り、日本に引き揚げずに独立派に身を投じた元日本兵は数千人に

        ぼる。彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまであるが、まずは戦前・戦中、日本が大東亜共

        栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放というのがある。

        また、独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」

        を誓いあった者や、日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残

        留した者。日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍の教官としてインドネシア人青年の訓

        練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者もいる。

        これらの「現地逃亡日本兵」の独立勢力への参加については、連合国側はきびしく禁じており、

        日本軍の現地指導部でも、在留日本人の引揚げに悪影響を与え、ひいて

        は日本の国体護持や天皇の地位にまで悪影響を与えるとして対応に苦慮

        した。

        敗戦後、引き上げまでの間に命を落とした日本軍の死者は1078人を数え

        た。この人数は日本軍の印侵攻時の戦死255名、負傷702名を上回るも

        のだった。武器譲渡をめぐる独立派との衝突や、

        連合国側の進駐軍が現地の治安確保のために日本軍部隊に出動を命じて

        戦闘になったことなどによるものだった。

1946年11月12日:オランダはジャワ島、スマトラ島、マドゥラ島をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、双

         方は連邦国家樹立に向けて努力するという停戦協定(リンガジャティ協定)が成立した。そして

         当初の予定どおり、イギリス軍は11月中にインドネシアからの撤退を完了した。

1947年  1月24日:オランダ軍は東部ジャワのクリアンとシドアルジョを攻撃、これを占領するとともにさらに内陸

         のモジョクルトへも兵を進めた。

      5月  :日本人引き揚げ

      6月28日:オランダ軍は全域での進軍を命じ、スラバヤ、ジョグジャカルタ周辺への空爆も開始された。

      7月17日:オランダ軍は共和国側へ最後通牒を突きつけた。(日本に奪われた奴隷と土地を奪いたい?)

      7月21日:共和国領内への全面的攻勢を開始した(オランダ側では「(第1次)警察行動」という)。

          オランダ軍はジャワ西部のジャカルタ、チルボン、南部のチアミス、タシクマラヤ、北部のスマ

         ラン、マグラン、スマトラのメダン、パレンバンなど、主だった拠点を占領し、インドネシア共

         和国臨時首都であるジョグジャカルタにも迫った。12万を超すオランダ軍は装備の面でも、練度

         においてもインドネシア側の武装組織を凌駕しており、独立軍は都市部を放棄せざるをえなかっ

         たが、一方のオランダ側も、農村部でのゲリラ戦に苦しめられた。これに対してオランダ軍は徹

         底したゲリラ掃討作戦を展開した。

      8月  1日:国際連合安全保障理事会で、即時停戦と仲裁による和平解決をもとめる安保理決議27が採択され

         た。この決議にもとづいて

      8月  4日:安保理27の採決を受けて停戦成立したが、オランダ軍はそれに逆らい攻撃をつづけ、占領地域に

          次々と傀儡国家・自治領域を設立していった。

          このためインドネシア共和国国連代表シャフリル(前首相)の求めによって、国連はインドネシ

          アが指名したオーストラリア、オランダが指名したベルギー、そしてオーストラリア・ベルギー

          両国が指名したアメリカ合衆国の3カ国による仲裁委員会の設置を決定した。

    10月  :この仲裁委員会の代表がジャカルタに到着し、新たな停戦協定の締結へ向けて努力する。

    12月  9日:オランダ軍は、西ジャワにある小村ラワゲデに独立派指導者ルカス・クスタリオが潜伏している

         として捜索を行った際、村に住む男性150人以上を虐殺する。

1948年  1月17日:ジャカルタ沖に停泊する米国軍艦レンヴィル 艦上で調印された停戦協定(レンヴィル協定)は、

         インドネシア共和国領をジャワ島の中部と西端部、マドゥラ島のみとし、共和国側はさらに狭

         領域へと押し込まれる現状を追認するしかなかった。

      1月23日:アミル・シャリフディン内閣総辞職。

      1月29日:大統領スカルノは、副大統領ハッタに超党派の内閣を組織させ(首相と国防相を兼任)、レンヴ          ィル後の国内混乱を収拾し、オランダとの外交交渉を継続していくことになった。

         一方で、レンヴィル協定に反対するインドネシア共産党(PKI)をはじめとする徹底抗戦派およ

         び左派勢力が糾合され、スカルノ、ハッタらの外交路線と対立した。

1948年  9月18日:政府と左派勢力の対立のなかで、PKIの影響下にある部隊がジャワ島東部のマディウンで政府機

          関を襲撃し、革命政府樹立を宣言した(マディウン事件)。1ヶ月ほどでこの反乱は鎮圧。

    12月11日:共和国内部での混乱に乗じて、オランダが和平会談決裂を宣言。

    12月19日:オランダはこの日の早朝に、共和国領内への全面攻撃を開始。(オランダではこれを「第二次警

          察行動」という)。

          オランダ空軍の爆撃機によってジョクジャカルタのマグオ空港が空爆され、オランダ海兵隊と蘭

          印軍が地上から侵攻。

    12月23日:オランダがインドネシア共和国臨時首都ジョグジャカルタを陥落。当時、ジョクジャカルタの共

          和国側には3個中隊の兵力しかなく、オランダはスカルノ大統領、首相兼副大統領ハッタ、そし

          て閣僚の大半を逮捕した。

          共和国側はスマトラで臨時政府樹立(臨時首相はシャフルディン・プラウィラネガラ蔵相)を宣

          言、逮捕されたスカルノもオランダとの交渉継続を破棄し、徹底抗戦を全国民に訴え、インドネ

          シア側の武装勢力も組織的な抵抗を開始した。スディルマン国軍司令官の号令の下、農村部や地

          方都市でゲリラ戦や治安の撹乱をすすた。

1949年  3月  1日:オランダ占領下のジョグジャカルタ奪還作戦を敢行し、一時オランダ軍を窮地に追い込んだ。

          オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった。

     7月  6日:オランダに逮捕されていたスカルノらインドネシア指導者達がジョグジャカルタに帰還。

     7月13日:スマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活。

     8月23日:オランダの首都ハーグでハーグ円卓会議が開催された。

   11月  2日:ハーグ円卓会議

         当事者であるインドネシア共和国、同連邦構成国、オランダとのあいだで、以下が決議された。

         ◯ 諸邦連立のインドネシア連邦共和国を樹立する。

         ◯ オランダは無条件でインドネシアの主権を連邦共和国に引き渡すことに同意する。

         ◯ インドネシア連邦共和国は、オランダ=インドネシア連合(イリアン・ジャヤを含む)に参加

           し、オランダ女王をその元首とする。

         ◯ インドネシア連邦共和国の外交、国防、財政等にオランダは永久に協力する。他。

          また、オランダは交渉の過程で、インドネシア側に61億ギルダー(17億3200万ドルに相当)の

          債務負担を要求しが、最終的には43億ギルダー(11億3000万ドル相当)の債務をインドネシア

          側が継承することで合意した。

   12月24日:国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理はこの日の決議でオラン

          ダに共和国指導者の釈放を要求した。アメリカは、オランダへの経済援助の停止を通告し、和平

          協議復帰への圧力をかけた。

   12月27日:インドネシアの主権を連邦共和国に移譲。ここにおいて戦争は公式に終結した。

1950年  8月15日:インドネシア連邦共和国が単一のインドネシア共和国となった。これでオランダの目論みは完全

         に失敗し、300年に及ぶ影響力を遂に失った。

 

         建国後のインドネシアは原油とゴムの輸出によって経済を再建するとと

         もに、政治的には日本と同じ議会制民主主義を忠実に実行した。だが、

         民族・宗教・イデオロギーを異にする政党同士に妥協の余地は少なく、

         議会は空転し、この時期の内閣はいずれも短命に終わった。

1956年    :ハーグ協定を正式に破棄して、西側に属するオランダと決別。非同盟中

         立国家として歩むことを目指した。 政治的混乱を収拾するためにスカル

         ノは「指導された民主主義」を提唱。混乱の原因とされる議会制を停止し、スカルノが国内諸勢          力の調停者として国家を指導するというもので、独裁化という危険をはらむものであったもの          の、混乱する政局に嫌気がさしていた国民の間にも支持者が拡大した。

1957年12月  :植民地時代から蓄え続けていた自らの利権を死守すべくインドネシア国内に残っていたオランダ

         人を追放。

         インドネシア共和国は、オランダによる過酷な植民地支配から脱却し、民族の統一を目指すはず

         が、現実には国家分裂の危機へと向かっていた。

1958年  1月20日:日本とインドネシアの平和条約。

1958年  8月15日:市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。

                                   1958年8月15日東京にて。スカルノ

1959年  7月  5日:スカルノは議会を解散し、自らの行動を制約していた1950年憲法を停止して、強大な大統領権限

         を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。

1960年    :なおオランダ支配下にあった西イリアンへ進攻し、オランダと国交を断絶。

1961年12月  :西イリアン解放作戦、ニューギニア西部、空挺攻撃。オランダ植民地を占領。

1962年    :アメリカ合衆国政府の介入による国連暫定統治を経て、西イリアンはインドネシアへの移管が決

          まった。

          一方オランダは最大の植民地である東インドを失い、別の意味で「敗戦国」になった。植民地に

          固執して多くの血を流した姿勢は、諸国の批判を招いた。

1962年(昭和37年):スカルノ大統領と根本七保子(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)が正式に結婚し、4人の夫人

          のうちの第3夫人になる。

         イスラーム国家の樹立を目指すアチェ州のダウド・ブレエ率いるダルル・イスラーム運動は独立

         戦争のさなかから1965年まで続いた。

1962年  6月  :西ジャワでイスラム過激派といわれるカルトスウィルヨが銃殺。

1963年  3月  :国際連合調停、オランダ領ニューギニア施政権インドネシアに移管。

1952年〜1964年:イスラム急進派と結びついたカハル・ムザカルの反乱。

1965年  1月  7日:国連脱退。対決政策に対するIMF経済援助停止に不服。

     8月17日:世界銀行、IMF脱退。

        9.30事件、共産党シンパ国軍部隊と共産党組織による国軍幹部殺害。スハルトにより共産党、左

        派勢力壊滅。

1966年  9月  :国連に復帰。

1967年  2月  :IMF再加盟。

      3月  :スカルノ9.30事件の関与疑惑などから終身大統領の地位剥奪、失脚。

      4月  :世界銀行再加盟。

1968年  3月  :スハルト第2代大統領選任。

1997年    :アジア通貨危機。

1998年    :スハルト大統領辞任

 

 セルベス島は植民地時代に呼ばれていた名で、インドネシア独立後(1949年)は、一般的にはスラウェシ島と呼ばれる。

 

 

1525年:モルッカ諸島より金の探索に派遣

    されて来たのがポルトガル人。

    島は曲がった形をしているので当

    時は列島であると信じられてい

    て、金を産出しているとの噂があ

    った。

1605年:イギリス人がマカッサルにファク

    トリーを設立した。

1660年:オランダはマカッサル西海岸の主

    力であるゴワ王国との戦争に突入

    した。

1669年:スペルマン提督が、ゴワ・スルタ

    ン国のスルタン・ハサヌディンに

    ボンガヤ条約を署名させた。条約

    はオランダ東インド会社の支配に

    関するものであった。

9月30日事件の背景

 

 インドネシア建国の父となったスカルノは、国民をオランダの植民地支配から解放したという点で、まさしく「国民的英雄」だった。その一方で、オランダの植民地時代の遺産の完全否定は、経済的にプラスになる部分まで切り捨ててしまったために、同国に経済的な疲弊をもたらした。

 旧オランダ領東インド時代のジャワは、世界でも有数の砂糖生産地であり、その輸出により経済が成立していた。こうしたモノカルチャー経済に大きく依存していた国民経済は世界市場の変動によって左右されやすく、政治的独立を達成したスカルノにとって次なる課題は、そうした植民地経済の遺産を清算し、経済的独立を達成することであった。 

 スカルノは、欧米諸国、その中でも西側諸国を中心とした外国企業の資産を接収し、新たな外資の導入も禁止することで、欧米諸国を中心とした外資の排除を図った。また、植民地時代から経済分野で優勢な地位を固めていた華人を差別し、さらにさまざまな輸入品目の規制を図ることで地場産業の振興を図り、自立的な経済の樹立を目指した。

 しかし、これらの経済政策は、深刻な食糧不足とインフレ率数100%に達する末期的な経済状況を生み出してしまった。

9月30日事件の作品 wikipediaより

 2012年のイギリス・デンマーク・ノルウェー合作ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』は、9月30日事件の経過で発生した民間人による大量虐殺を取り扱った。

 インドネシアにおいては、2010年代に入っても9月30日事件を扱うことはタブーであり、被害者への取材を禁止されたことから、製作サイドは加害者側の民間人への取材を行い、殺害方法などを取りまとめた異色の作品となった。

 

映画「ムルデカ 17805」youtube

 というわけで、日新丸は日本を離れて10日ほどで、赤道が通るセレベス島まで来ていたようです。

 それにしても、相撲大会があったとは。土俵に使っている土も運んでいたんですね。

マルハのロゴ

赤道直下

船長室

南十字星

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