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いたずら 北氷洋捕鯨

おやじメモより

 いたづら
 切揚げ後課長が去ってから
 事務所に落書きしてそちこちの
 事務用タイプライターをいじって
 切揚げのほっとした気持ちで各々記念を撮る
 撮影者 東京都の小倉さん29歳
 落書は大勢

 ふふっ、イタズラ。
 因に「いたずら」と「いたづら」ですが、終戦翌年の昭和21年(1946年)11月16日に内閣が当用漢字・現代かなづかいを告示し、以降「いたずら」になりました。
 昭和29年であろうこの写真の頃は、すでに「いたずら」が正しいのですが、乗組員400名の日新丸の中では、なかなか変わらないものなのかも知れませんね。

 このタイプライターは和文タイプだろうか。今なら電気さえ有ればパソコンで何でも作れますが、タイプライターは電気を使いわない機械としてこの世に誕生し、その後電気式、電子式と進化しました。
 ピアノはキーボードを押すと、ハンマーが弦を叩いて音を出しますよね。英文タイプライターはキーを押すと、アルファベット一文字のハンコが紙を目掛けて飛び出す機械です。ただし、和文タイプは字数が多いので、やる事は同じなのですが構造が違います。
 和文タイプの場合は箱に漢字やひらがなカタカナ数字などの印がびっしり詰まっていて、そこから一文字ずつ拾っては紙に押すという構造になっています。ですから英文タイプのようにキーを見なくてもカチャカチャ打ち込むわけにはいかないのです。

 それにしても、こんなイタズラ者が沢山いたのでは、当時の管理者は大変ですね。

内地に向かう日新丸の一端

内地へ向かう

おやじメモより

 内地に向かう日新丸の一端

 あとは暴風圏を越えて、赤道を越えれば桜咲く日本ですね。弘前公園の観桜会には十分間に合います。

 日新丸の写真を拡大してみると、どうやらこの場所は船首の操舵室がある建物(五階建て)の右舷側ですね。三階あたりかなと思われます。

 飛び散る波飛沫(なみしぶき)を見ると、いよいよ暴風圏なのかもしれません。
 さらによく見ると、この建物は船本体の幅より広く、はみ出しています。ということは、「出港!」の写真は、ここから撮ったようですね。

では、第21次南氷洋捕鯨での第十八関丸、機関長の弘井武志氏の日誌を覗いてみましょう。

 

昭和42年3月19日(日)[ 天気BC(快晴薄雲)、風力5( 風速8.0-10.7m/s) ]

 相変わらず風止まず。恐らくスンダ海峡に入るまで、このままの状態であろう。午後7時30分より無線室にて、相も変わらず砲手のホラ話を聞き乍ら、局長と軽く飲み午後9時30分に帰室。一人でまた軽く呑み、空腹となり桃缶1/2位食べ、10時半頃に眠る。

 

昭和42年3月21日(火)[ 天気B(快晴)、風力4 ]

 段々暑くなってきた。本日、北洋出漁のメンバーの発表あり。本船は背古砲手、三宅船長、自分、阿部国局長。案外気楽にやれそうだ。

昭和42年3月23日(木)[ 天気B(快晴)、風力1 ]

 午前7時30分起床。久しぶりに朝食を軽く食う。午後4時スンダ海峡に入ったらしい。この調子で行けば4月1日午前中に入港出来るだろう。終日ファンを直接体に当てて寝るせいか、体がだるい。午後8時より局長が呼びに来て、ナンバンの長女が高校入学にて、ホワイトホース1本を祝いとして提出。それを食堂で呑み、自分は大体定量を呑み早々に引き上げ、自室でまたシングル一杯。砲手に言わせると今年の南極で局長が呑みすぎるのも最近痩せて来たのも、一緒になって呑んだ俺が悪いそうだ。要自戒。まるで何処かの教育ママのようだ。自分の子の成績が悪いのは、友達が悪いという論法だ。

 第21次南氷洋捕鯨ではスンダ海峡を通ったようですね。第8次南氷洋捕鯨の日新丸船団はどこを通って母国を目指したのでしょう。恐らく切り揚げ時の場所によって違うのでしょうね。

 弘井氏の日記によれば、南氷洋を離れて気温が上がる頃、北洋捕鯨のメンバー発表があったようです。

 

北氷洋捕鯨

 

 南氷洋捕鯨が昭和9年、北氷洋捕鯨は昭和15年から始まりました。  

 母船式捕鯨は国策的性格を含んだ事業であり「母船式漁業取締規則」により、農林水産省の許可制の下で実施されていました。それは船舶を有事の際に軍用艦船として使用する意図があったからですが、事実、大戦中は多くの捕鯨船や母船が大日本帝國海軍特設艦船として徴収され、そのほとんどが米国の空襲や魚雷の餌食になっています。

昭和13年頃捕鯨許可が下ろされていた会社

日本水産株式会社

株式会社林兼商店

大洋捕鯨株式会社

極洋捕鯨株式会社

北洋捕鯨株式会社

鮎川捕鯨株式会社

遠洋捕鯨株式会社

 捕鯨許可が下ろされている会社の中で、母船式捕鯨を許されていたのは日本水産、大洋捕鯨、極洋捕鯨の三社でした。

 北洋捕鯨に関しては、日本水産六割、大洋捕鯨三割、極洋捕鯨一割の出資で北洋捕鯨株式会社が設立され、社長に就任したのは日本水産の渋谷辰三郎氏。

 さらに北洋捕鯨では南氷洋捕鯨よりも経費がかからず、漁場が近いことから運搬船を活用することで鯨肉の鮮度を保つことができたようです。

 また、北洋捕鯨株式会社では自社の捕鯨船を持たず、三社の

第一次北洋捕鯨船団

捕鯨母船 図南丸    日本水産

捕鯨船  第五玉丸   大洋捕鯨

     第六玉丸   大洋捕鯨

     第七昭和丸  日本水産

     第八昭和丸  日本水産

運搬船  興亜丸    極洋捕鯨

     大白山丸   日本水産

     第十一播州丸 林兼商店

施設をそのまま兼用しての出港でした。

 南氷洋にしても北氷洋にしても、捕鯨シーズンは夏なので、時期的には半年ズレます。交互に出漁すれば無駄がなく効率がいいわけです。

 しかし、右図の船のうち大白山丸だけは資料が見つかりませんでしたが、その他は昭和18年から20年の間に特設艦船として徴収され、沈没しています。

第一次北洋出漁 図南丸発進運搬船一覧

運搬船名   発 進 日  行 先 積 荷 数 量 

第十一播州丸 六月二十一日 青 森 生赤肉 120,800斤

       七月五日   青 森 生赤肉 114,700斤

       七月二十日  青 森 生赤肉 101,680

       八月十二日  大 阪 生赤肉 120,500斤

第十七播州丸 七月一日   青 森 生赤肉 140,100斤

第二図南丸  七月十五日  横 浜 生赤肉   35,660斤

                   塩蔵赤肉  314,220斤

                  鯨 油  1,472斤

大白山丸   七月七日   青 森 生赤肉 329,050斤

       八月八日   青 森 生赤肉 316,870斤

興亜丸    九月六日   名古屋 生赤肉  1,084,000斤

* 1斤 = 160匁 = (正確に)600グラム

 戦後、北洋捕鯨が再開したのは昭和27年。対日講和条約の発効を待って、日本水産、大洋漁業、極洋捕鯨の3社共同経営により、極洋捕鯨のばいかる丸を母船に7月10日、横浜港を出航しました。

 その後昭和29年の第三次北洋捕鯨からは大洋漁業の金城丸も参加し、これで北氷洋は二船団体制となりました。

 

おまけ

 運搬船一覧の行先を見て驚きました。北洋捕鯨では青森が輸送拠点になっていたようです。

 恐らく青森から鉄道を使えば日本海側へも太平洋側へも輸送可能だからかもしれません。

 戦前の北洋捕鯨は第二次まで続きましたが、残念ながら昭和16年(1941)、大戦の勃発と同時に一切の母船式捕鯨を中断せざるを得なくなりました

帆綱は唄う 海の純情(1956)  鈴木清順監督 冒頭部分

脚本 田辺朝巳 真弓典正

 北洋漁業株式会社が舞台となっている日活歌謡メロドラマです。捕鯨船磐城丸の砲手兼任の織田船長がいくら捕鯨銃を撃っても鯨に当たらない(ドンガラ)^^  

 唄のうまいイケメン春海八郎は船長の娘和枝に恋をしている。次の出漁で船長は見事に鯨を仕留めるが怪我をしてしまい、砲手を八郎が務める。八郎に一目惚れしてしまった柔道芸者の鈴菊。そのほかバーの女給由美子勝気な美代が物語に彩りをあたえる。

 

図南の翼 第三図南丸物語(前編)

マルハのロゴ

図南の翼 第三図南丸物語(後編)

昭和8年(1933)

 日本が国際連盟脱退(軍備増強に専念可能)

昭和9年 南氷洋捕鯨開始
昭和11年(1936)

 二・二六事件(陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件) 
昭和12年(1937) 

 日中戦争(支那事変)
昭和14年(1939)

 1月 アメリカが通商条約破棄を通告

   (翌年条約失効)

 9月 ドイツがポーランド侵攻
昭和15年(1940)

 6月4日   北洋捕鯨開始(大阪港出港) 

 7月14日 パリはほぼ無抵抗でドイツ

     に降伏

 9月 日独伊三国同盟
   「大東亜共栄圏」構想
昭和16年(1941)

 4月 日ソ中立条約
 6月 ドイツがソ連に侵攻
 7月 南部仏印
 8月 対日石油全面禁輸
    米国、空母百隻建造計画

  10月 ゾルゲ事件(リヒャルト・ゾル

     ゲ、尾崎秀実らが逮捕)
  11月 ハル・ノート を対日最後通牒

     と解釈

太平洋戦争(大東亜戦争)
   12月8日 真珠湾攻撃 大勝利
      10日 マレー沖海戦大勝利
昭和17年(1942)

 蘭領東印(現インドネシア)を10日で占領するなど各地で大勝利
 6月5日 ミッドウエー海戦で大敗北
 8月8日 第一次ソロモン海戦で大勝

     利、だが輸送船団を放置
 10月13日 ガダルカナル米飛行場を

        艦砲射撃(中途半端な攻撃)
 10月26日 南太平洋海戦。
 12月31日 ガダルカナル島撤退決定 

昭和18年(1943)

 4月 山本五十六長官戦死
 5月 アッツ島の日本軍が初の玉砕

 9月 イタリア降伏
昭和19年(1944)

 6月 マリアナ沖海戦で大敗北
 7・8月 サイパン・グアム島を米

       軍が制圧
 10月 レイテ沖海戦で初の神風特攻 (日本空母4→0、米空母35→32)
昭和20年(1945)

 2月 硫黄島に米軍上陸
 3月10日 東京大空襲 
 3月13日 大阪大空襲
 3月26日 沖縄戦開始(~6月23日)
 5月9日 ドイツ降伏
 7月26日 ポツダム宣言 (日本軍の

     無条件降伏を勧告) 
 8月6日 広島に原爆(ウラン型)
 8月9日 ソ連が中立条約を破り侵攻

     開始
     長崎に原爆(プルトニュウ

     ム型)
  15日 終戦 (玉音放送)
 9月2日 戦艦ミズーリで降伏調印 
昭和21年(1946)

 東京裁判(パール判事だけが日本人被告の全員無罪を主張)
昭和26年(1951)

 マッカーサーの証言:「日本の戦争は“生存”のためだった」

昭和初期の捕鯨 無声記録映画

青森市(2015年)

大洋漁業 ヘリコプター くじら号 BELL 47D-1

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