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原 節子

おやじメモより

 女優原節子 

 この顔は心がやすまる 

 当時の男の世界(海)にあったね。

 原節子といえば海の男だけでなく全国的なスターでしたし、2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・日本編」で女優部門にノミネートされ、日本女優の第1位に輝く歴史的銀幕スターです。

 さてwikipediaによると、原節子さんの本名は会田 昌江(あいだ まさえ)といい、1920年 (大正9年) 6月17日、神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)に生まれる。保土ヶ谷尋常高等小学校から私立横浜高等女学校(現 横浜学園高等学校)に進むが、家庭が経済的に困窮していたこともあり、次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし、女学校を二年で中退した。

 1935年(昭和10年)4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とする。

 この写真は、おやじのアルバムの中では小さく貼り付けられていますが、とても存在感のあるオーラを放っています。母船では映画祭なども行われていたので、日新丸船団の中にも原節子ファンは多かったことでしょう。

デビュー作

 1936年(昭和11年)、第七回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。ファンクは当初、田中絹代も一緒にキャスティングしようとしたが田中が松竹の専属であったためにかなわず、原のみのキャスティングとなった。伊丹万作監督も請われて協力したこの作品は、結果としてファンクが編集した版と、ファンクと対立した伊丹が編集した版の両方がつくられてどちらも公開された。その後はファンク作品の方が知られている。

新しき土

 同作の公開後の1937年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。

 3月23日に公開されたドイツでは、宣伝省の通達によりヨーゼフ・ゲッベルスとアドルフ・ヒトラーが自ら検閲して最終許可を与えたことが大々的に報じられた。ただし、ゲッベルスは日記で「日本の生活や考え方を知るのに良い」と評価する一方で、「我慢できないほど長い」と不満を述べている。

 3月26日、原一行はシベリア鉄道を利用してベルリンに到着。先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。この後一行はフランスからアメリカへ渡り、7月28日に帰国した(ちなみにこの『新しき土』における日独合作映画の製作は、1937年11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという。)。この年、原は11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。

 『新しき土』への出演によって一躍、銀幕のスターダムに駆け上がった原だったが、

「もっと勉強してからスターになるべきだった。」と小杉勇が述懐したように、しばし

ば演技が未熟であるという批判にさらされることになる。今井正によれば、戦中の原は

義兄熊谷久虎(戦争中に国粋主義思想にのめりこみ映画界を離れて、「すめら塾」とい

う私塾まで創った。)に影響されて「ユダヤ人謀略説」を唱えていたという。

 

太平洋戦争中

 1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ、『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。

決戦の大空へ

戦後

 戦争後の翌年、1946年9月、原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。同作はGHQの奨励した民主主義映画の一つ。滝川事件とゾルゲ事件をモデルに、ファシズムの時代の中で自らの信念に基づいて生きる女性の姿を描いた作品で、「自我の確立」をテーマに据えた。第20回キネマ旬報ベスト・テン第2位。

 当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移るが、1947年6月フリーの女優として独立する。フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。つづく1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。

 

小津安二郎監督作品

 同年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。以後、1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。(原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続く。)小津は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。

 1949年(昭和24年)には『晩春』、『青い山脈』、『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった。

 

青い山脈

 青森県弘前市生まれの石坂洋次郎が青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務していた頃に、当時疎開中の女子学生達から聞いていた学校生活をこの小説の題材にしたといわれていが、その後は秋田県横手市で13年教員を勤める。

わが青春に悔なし

青い山脈

1951【麦秋】小津安二郎

 「青い山脈」は、日本国憲法が施行された翌月の1947年(昭和22年)6月から10月の「朝日新聞」に連載され、民主主義を啓発させることにも貢献したとされる。尚この小説は、従前の中等学校令(昭和18年勅令第36号)に基づく旧制・高等女学校と高等学校令(大正7年勅令第389号)に基づく旧制・高等学校という中で書かれている。

 新聞連載後、同年に新潮社から書籍として出版され、現在も新潮文庫の形態で販売されている。

 物語は、東北地方の港町を舞台に、若者の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説となっているが、実際に撮影されたのは静岡県下田市他であった。

 モデル校については色々説があるのでここには書きません。母校愛が深いモデル校の皆様ゴメンなさい。

昭和のカラー映像 14 of 15 原節子

東京物語

 1953年に公開されたモノクロの日本映画。監督は小津安二郎、主演は笠智衆と原節子。『晩春 (映画)』(1949年)、『麦秋 (1951年の映画)』(1951年)、『東京物語』(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であることから、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶ。昭和28年度文化庁芸術祭参加作品。

 映画はローポジションを多用し、カメラを固定して人物を撮る「小津調」と形容される独自の演出技法で、家族を丁寧に描いている。また、家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている。

東京物語

 この空気感、流れる時間、なんともいいですね。

 1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことで、マスコミから「伝説の存在」と表現されるようになる(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品。)。 原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中、原の眼前で実兄会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手の伊藤哲夫と共に列車にはねられ、不慮の死をとげるという悲劇にあう。小津と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、引退をささやかれるようになる。

 1955年に公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。体調が回復した1956年の作品『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品であった。1961年、日本映画の年間製作数は548本に達するが、これをピークに映画産業は斜陽化していく。

 1962年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の

巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが原

にとって最後の出演作品となった。しかし、1963年12月12日、小津が

東京医科歯科大学附属病院で没し(その日は小津の還暦の誕生日だった)、

その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台

には一切姿を見せなくなった。現在は鎌倉市で親戚と暮らしているとさ

れる。高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を

引いたと表現している。

 

 2015年9月5日 肺炎のため神奈川県内の病院で死去していたことが同年11月25日にわかりました。享年95歳。横浜市出身。晩年は小津監督の墓がある鎌倉で静かに過ごしていたという。

東京見物 皇居

鎌倉見物

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