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出港準備

おやじメモより

母船日新丸へ運物品 母船へ 名物運搬 

 A:青森県八戸市 B:岩手県 C:岩手県 

 D:東京都 

 どんな気持ちで母船へ向かったのでしょう。戦争よりはマシですが、南氷洋を目指すにはそれぞれの覚悟があったのでしょうね。

 どの業界の船舶も、敗戦後に大型船を動かしていたのは元日本海軍だったと伝われています。捕鯨母船にも居たかもしれません。

 ふと思ったのですが、日新丸が岸壁についた方が効率がいいと思いませんか?

 小さな運搬船(大発)を使わなけれなならなかった理由に何があったのでしょう。

 港が浅くて母船が入れなかったのか?

 岸壁に空きがなかったのか?

写真をよく見ると、背景に捕鯨船が並んで停泊しているのが見えます。ここは横須賀の長浦港でしょう。

文丸と利丸

敷設艦つがる

出典:国土地理院ウェブサイト

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=430968) 

撮影年月日:昭和38年(1963)6月23日

撮影計画機関:国土地理院

 さらに写真を拡大すると、長浦湾内に2〜3隻づつ並んでいる捕鯨船が20隻ほど停泊しています。おやじが撮った写真の大発はこの捕鯨船をバックに北上していると思われます。母船は写っていないようですね。

 

 昭和46年5月撮影の航空写真に、長浦湾入り口付近に停泊中の捕鯨母船が写っていました。米軍施設となっている箱崎町の「大地の鼻」の先です。 

捕 鯨 船

出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=445023)

撮影年月日:昭和46年(1971)5月7日

撮影地域:横須賀

撮影計画機関:国土地理院

 

 昭和46年5月7日撮影ですから、第25次南氷洋捕鯨から帰港した第三日新丸だと思われます。何やら搬出中のようですね。

 そして秋には資材を搬入して、BWU(シロナガスクジラ換算方式)最後の第26次南氷洋捕鯨へ出港しました。

⭕️

 船は違いますが、二代目日新丸の搬入搬出の様子を右写真で見れます。

日新丸 田浦港にて

横須賀の歴史から

・1945年(昭和20年):米海兵隊が8月30日に上陸、市内軍事施設は全て進駐軍管理下に置かれる。米海軍横須

            賀基地司令部が発足。

           :9月3日、GHQが日本船舶を国家管理のまま、米国太平洋艦隊司令官の指揮下に編入

           ることを決定。

・1948年(昭和23年):横須賀港が重要港湾に指定される。

・1950年(昭和25年):旧軍港市転換法に関する住民投票実施、施行。旧逗子町域が横須賀市より分離して逗子

            町となる。

・1952年(昭和27年):保安庁警備隊(後の海上自衛隊)横須賀地方隊が編成される。

 という時代の流れの中で、大型船が接岸できる埠頭が解放されておらず、日新丸ほか他の捕鯨母船も中積み船も、止む無く海上での積み下ろしを行っていたようです。

 おそらく鯨肉を積み込んだ中積み船が到着すると、大発がピストン輸送していたのでしょうね。

 

  マルハOBの山田氏いわく「当時、母船が岸着できる埠頭は使えず(米軍の接収)資材はすべて長浦の捕鯨基地から大発で沖積していたと思います。船積みの順番待ちで五月の太陽の下、冷凍肉が溶け始め、やきもきしたことを思い出しました。」と。

倉庫(田浦事務所)

青森駅にて 精油課の友

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