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佐世保

おやじメモ

 なし

メモはありませんが、この特徴ある形は、佐世保港です。

 さて、撮影場所は地図上の北にある弓張岳(ゆみはりだけ:標高は364m)付近だろうと思います。当時どこまで整備されていたのか分かりませんが、頂上付近にある弓張岳展望台あたりから撮っているように思います。手前右に人が写ってますね。細い登山道が有ったのかもしれません。

佐世保港の歴史
 海上自衛隊佐世保地方隊さんから写真をお借りします。

佐世保港海軍用地之図(佐世保市図書館所蔵)

佐世保鎮守府開庁に伴い、軍艦の建造や兵器の製造を所掌する造船部と兵器部が鎮守府内に設置されました。
船渠(ドック)の築造工事が始まり、約2年半を費やして第1船渠(石積み)が完成しました。
佐世保鎮守府造船部は佐世保海軍造船廠に改編され、日清戦争期までに、小口径砲、
砲架信管、薬きょう、水雷等も製造できるようになりました。また、船渠も1902(明治35)年までに、第1・第2水雷艇船台、第1・第2船台、第2船渠(コンクリート造り)が完成し、ドイツやイギリスで製造された水雷艇が佐世保で盛んに組み立てられました。
日露戦争直前のこの年、佐世保海軍造船廠は、艦船・兵器の製造修理、購入、実験、検査等
を一カ所で迅速に行う必要性から佐世保海軍工廠に改編されました。軍備拡張に伴う軍艦の大型化が図られ、これに対応するために、佐世保海軍工廠においては船渠の築造が更に進む。
第3船渠が完成。
第4・第5・第6船渠が相次いで完成しました。また、イギリスのサー・ウィリアム・アロ
ル社で製造された250トンクレーンも竣工し、艦船の修理、艤装等に使用されました(同クレーンは、100年以上が経過した現在でも、艦船の建造、修理等に活躍しています。)。
大蛇島、小蛇島、立神崎を埋め立て、1万トン級の軍艦9隻を同時に横付けできる立神係船
岸壁が完成し、艦艇建造の技術も急速に確立されました。
佐世保海軍工廠で最大の第7船渠(全長340m、幅51m)が完成し、この年の7月に同船渠
において、戦艦「武蔵」の艤装工事が行われました。
終戦までに、佐世保海軍工廠で建造された艦船は、軽巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など88隻を
数え、また、総員数の最も多かった年には、約46,000人(昭和19年)が従事しました。
終戦により佐世保海軍工廠は閉鎖。

1889(明治22)年
 

1893(明治26)年
1897(明治30)年

 

 


1903(明治36)年

 


1905(明治38)年
1913(大正2)年

 


1918(大正7)年


1941(昭和16)年

 

 


1945(昭和20)年

昭和20年 終戦時の佐世保海軍工廠配置図

10月、同施設を活用した佐世保船舶工業株式会社(SSK)が創設され、戦後処理としての帝国海軍艦艇の解体作業や復員輸送船の整備等が行われました。

11月12日。米国原子力潜水艦シードラゴン号が初帰港。

原潜は安全です vs 反対派学生運動がおこり、11人の学生

が逮捕された。
8月31日。倒産の危機にあった佐世保重工業が、香港の海

運会社「東方海外貨櫃航運公司(董浩雲社長)」より受注

していた7万t級タンカー「オリエンタル・ジャイアント

DW7万トン)」が完成。
佐世保重工業株式会社に社名が変更され、佐世保海軍工廠から受け継がれた伝統と技術を活かしつつ、新たな時代へと変革を進め、日本を代表する造船企業へと発展しました。

5月、国有財産第2次払下げを受ける。
10月、当時世界最大のタンカー「日章丸」(132,334DWT)を竣工。

1946(昭和21)年


1954(昭和29)年

 

 

1959(昭和34)年

 

 


1961(昭和36)年


1962(昭和37)年

 昭和20年の佐世保海軍工廠配置図を見ると、ドックに振り分けられている番号が現代とは違うようですね。戦後、佐世保船舶工業株式会社(SSK)が誕生する時に変更したのでしょう。

佐世保の歴史

 空襲で明けた昭和20年、何もかも失った。
 政府が「本土決戦」を唱える中、米軍による空襲が激化する。女、子供まで駆り立てて「一億玉砕」が叫ばれた。
 7月、連合国は日本に無条件降伏を要求したが、政府はそれを無視した。(蒙古襲来の時のように)
 8月6日、広島にウラン235型原爆( リトルボーイ )がB-29米軍爆撃機エノラ・ゲイより投下。昭和20年12月

      末までに、約14万人が死亡。その後も苦しみ続ける人多数。
   8日、ソ連が日本に
宣戦布告
   9日、長崎にプルトニウム型原子爆弾(ファットマン)がB-29米軍爆撃機ボックスカーより投下。昭和20年

      12月末までに、死者73,884人.負傷者74,909人。
 8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏することを決定、翌日国民に玉音放送を通して

      知らせた。
 「戦争が終わった!」
 敗戦は人々に平和と自由をもたらした。(←この瞬間はそうだったかもしれない。しかし大変なのはこれから)徴用や動員は解除され、人々は先を争うようにして家族の待つ故郷の家へ、田畑へ、学校へと帰って行った。
 海軍は解体され、兵士は故郷へ帰り、軍の諸施設は極端に人員が減った。
 毎日のように市からの人口流出がつづいた。原因は食糧難や住宅難が大きい。空襲前までは30万人ともいわれた市の人口は、昭和20年末には14万人余と半分に減ってしまったのである。
 佐世保の産業、経済、生活を支えた「海軍」という大きな柱を失ったことにより、市民は一時的に心の中に大きな穴があいた状況になった。しかし一方では、復興に向けて歩み出そうとする力強い動きも出てきた。
 佐世保市の戦後復興は、SKKの名で知られる佐世保重工業の成功がそのまま佐世保市に影響を与えるほど重要なものでした。
 しかし、昭和30年代に入ってSKKが倒産の危機に追い込まれてしまう。
 1959年、佐世保市は初めて名誉市民表彰を行った。しかし、授与したのは佐世保市民ではなく、長らく市制を執行した中田正輔氏でもなく、佐世保市に縁がある代議士の北村徳太郎氏や山口喜久一郎氏でもなく、日本人でもなかった。この時に授与したのは、あの7万t級タンカー「オリエンタル・ジャイアント」を発注してくれた香港の海運会社「 東方海外貨櫃航運公司」の董浩雲社長でした。
 事実、この受注で佐世保重工業は倒産の危機を脱したのでした。


董浩雲より(中国語自動翻訳そのまんま日本語)
 石油輸送の問題を解決するために血管の多数を必要とする世界経済の急速な発展は、石油需要の大幅な増加を有する。起因する大トン数隻が大幅に輸送コストを削減することができますので、作らタンカーよりもっと、CY桐とシェル石油は、スーパータンカーの時代を作成中。 

 1959年8月31日、超大型タンカー「東アジア巨人(オリエンタル・ジャイアント)」7万トンが佐世保、日本で完成し、発売されましたが、アジアでは初めて、世界のトップ10ライナーの一つです。1960発行の「ブリタニカ百科事典は、「読み取り」1959内蔵の「東アジア巨人の数はアジア事業を運転している最大のアジアの船主、建設、運転および乗組員である。

 

原子力船むつ
 青森県民の皆様「原子力船むつ」懐かしくありませんか?
 夢のような噂が広まっていましたよね^^

 当時の原子力委員会委員長は核政策の熱心な推進者でもあった中曽根康弘

です。そもそも予算が合わない無計画な代物でしたが、それでもなんとか36

億円を60億円に増額して計画は実行されました。米国のサヴァンナ号が2万t

で総額169億円なのに比べれば少ないですよね。
 1972年にむつが就役したものの、水産物への風評被害を恐れた漁民の反対

で試験ができなかった。1974年1月に第一次オイルショックの影響もあり政府は一部漁民の反対を押し切ってむつを出航させ、洋上で臨界・出力上昇試験を行った。その際に遮蔽の不備による微量の放射線もれが検出された(レントゲン数枚分といわれている)。軽微なトラブルであったが当時の社会情勢も影響し、むつは母港大湊港に入港を拒否されたのです。
 この時に修理を受け入れてくれたのが佐世保市であり佐世保重工業株式会社です。
 ところが、修理が終わっても帰る港はなかった。1981年大湊からやや離れた関根浜に1000億円を投じて新母港関根浜港を建設して収容することに決定したが、巨額の新港建設費・地元対策費のために、むつ廃船論が沸き起る。
 むつは1991年に問題なく8万2000km(地球2周分)の試験航海を終え、1993年には原子力を外してディーゼルエンジンに積み替えて「みらい (海洋地球研究船)」に改装された。
 ここまで来て、やっと原子力機関というものは、当初見込まれていたより点検補修や廃炉コストが掛かるものだという事に気がついたとさ。しかし
三歩あるけば全て忘れる鶏のように、その経

験は2011年の東日本大震災で、フクシマ第一原発が爆発するまで、誰も意識する

事がなかった。今も昔も政府がやる事は同じですね。都合が悪い事は即隠蔽。
 そしてそして、何の因果か知りませんが、2011年3月末、フクシマ第一原子力

発電故の海洋汚染を調べるために、海水を採取していたのが「みらい」です。

元「原子力船むつ」なんですよ。(日本経済新聞 2011年6月18日「春秋」)

サヴァンナ号

みらい (海洋地球研究船)

第三日新丸と日章丸三世 

昭和37年

第三日新丸とタンカー

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