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2011年3月11日14時46分18.1秒

 

 日本の東北は宮城県の牡鹿半島より東南東約130km付近の海底で、深さ約24kmを震源として大地震が発生した。震源域は岩手県沖から茨城県沖にかけての幅約200km、長さ約500km、面積約10万㎢と広範囲にわたった。

 それはこの東日本大震災が、太平洋プレートと北アメリカプレートの境界域で起こった海溝型地震であったためである。

 地震の規模を示すマグニチュードはMw9.0だった。

 日本観測史上最大であるとともに、1900年以降でも世界で

4番目に大きな超巨大地震であった。(2014)

 

 この地震によって発生した大規模な津波は、最大で海岸から6kmまで内陸に浸水し、岩手県三陸南部、宮城県、福島県浜通り北部では津波の高さが8m〜9mに達した。

 最大溯上高は1896年の明治三陸地震よりも大きく40.1m(岩手県大船渡市)を記録するなど、東北地方の太平洋岸では福島第一原発も含め、高い津波が甚大な被害をもたらした。

特別編 第十六利丸の事

東日本大震災全体の中では、ほんの一部です

3月25日 NY Times 
「津波が日本の捕鯨産業の支柱を倒すのに成功したようだ」

2011年3月11日 鯨の町を襲った津波・宮城県石巻市鮎川浜・・

5月11日 陸の捕鯨船を再び海へ 捕鯨基地・石巻

 小型沿岸捕鯨の事

 

 ここが東北の捕鯨基地である宮城県石巻市鮎川浜です。左の動画で御覧の通り2011年3月11日の東日本大震災で大打撃を受けました。
 
日本の捕鯨史からみれば小型捕鯨の歴史は浅く、鮎川に小型捕鯨船(ミンク船)が現れたのは昭和8年のことでした。しかも和歌山県の太地から移り住んで来た長谷川熊蔵が持ち込んだと記録されています。
 しかし、戦後の昭和22年には大洋漁業、日本水産、極洋捕鯨の3社が事業所を構え、当時の就業人口約5800人のうち、実に7割ないし8割が、上記3社に関係する人々となっていました。

☆ 東日本大震災の津波で、宮城県石巻市給分浜の岸壁に打ち揚げられた捕鯨船を海に移動させる作業が16日午前に行われた。
 船は、同市の「鮎川捕鯨」が所有する「第28大勝丸」(47トン)で、市内の造船所で整備中に約二十数キロ・メートル離れた同岸壁に流された。船首を先頭に4分の3が岸壁に乗り上げていたが、クレーン2台でつり上げられ約1時間半後に海に移された。作業を見守っていた同社の遠藤恵一社長は「鯨を捕らないことには何も始まらないが、とにかくよかった」と笑顔を見せた。
(2011年5月16日11時33分 読売新聞)

ホエールランド
宮城県石巻市鮎川浜南61

 

 捕鯨船 大洋漁業所属 第16利丸
 総トン数 758トン
 長さ    68.37m
 軸馬力  3500馬力
 補助エンジン 2基
 速力   17.5ノット
 昭和33年7月4日進水
 林兼造船(下関市)

Category:Toshi Maru No.16 (ship, 1958)
★ History
1958年 named Toshi Maru No.16 for Taiyo       Gyogyo K.K.
    Flag: Japan
1976年 Transfered to Nippon Kyodo Hogei K.K.
1982年 Transfered to Nippon Hogei K.K.
1987年 decommissioned
1988年6月 presented to Oshika Town, Miyagi
1989年3月25日 Exhibition started at Oshika Whale Land, Oshika, Miyagi, Japan

2011年3月11日 stopped exhibition by the Great East Japan Earthquake

 さて、2011年に「おやじのアルバム」というブログを立ち上げてから捕鯨関係のHPやブログを時間がある限り検索しては読んでいます。
 捕鯨関係って意外に少ないと思っていた12月、★ CATCHER BOAT の捕鯨船 大洋漁業所属 第16利丸を発見しました。
 読むと書き手の息子さんと描かれている主人公の父上との関係が暖かく感じ、父上の人生に感動し、さらに捕鯨船の説明が分り易く書かれているので、早速連絡を取りたくてページ下のあや丸に戻るをクリックしました。 
「えっ、石巻で釣船あや丸をやっている・・・石巻で、『健康が優れず、やむなく休業中』・・・月の浦で、、、あ、2011年更新さえれてない。。。」
 これを読むと不安になりますよね。どうしても連絡を取りたくなり BBSに書き込んでみましたが反応が無い。メール送信したところ一応送れたので返信を待つ事にしました。こう言う場合のメールは若かれし頃のラブレターを待つようで、流れているはずの時間が止まってしまいますよね。
 2011年12月31日。年末年始のアルコール漬けが始まったころ返信メールが届いている事に気づき「生きてる」と歓喜してメールを開きました。
 メールによると、息子さんは転勤族の為、他県在住のお陰で津波から免れていた事。ご両親はすでに他界されており、この度の大震災を経験されてない事。実家の全てが流された事。10名以上の身内や友人知人を失った事などが書かれていました。さらに、遠くから毎月ボランティアで訪れているとの事です。
 こういう方々が気力を振り絞って復興しているんだと思うと、あらためて津波の恐ろしさと、対して人間の無力を思い知るに至り、同時に力強さを感じました。犠牲になられた方々のご冥福を心深く祈り、復興地へ向けて微力ながらも力を出したいと思います。
 そして驚いたのが父上の人生です。
 大洋漁業へ入社したのが昭和19年。翌20年に女川沖で米国潜水艦の犠牲となった捕鯨船が沈没したとあり、その捕鯨船に父上が乗っていたというのです。 まだ16才だった父上は、その若さで岸まで泳ぎ切ったそうです。
 昭和20年といえば、米軍が東北の港を空爆していましたので、その戦略に巻き込まれたのかもしれません。捕鯨船はその性能の高さから大日本帝國海軍の戦力として戦っておりましたから、米側の標的になっていたのは当然でしょう。事実、戦時中は多くの捕鯨船が魚雷の餌食になりました。 
 
 いろいろ調べていると、かつて海軍基地や捕鯨基地があった岩手県山田町の南陽寺に「新生丸戦没慰霊碑」という碑があることを知りました。


碑文
 捕鯨船新生丸は第二次世界大戦のさなか食糧増産と鯨油資源確保の為
 あらゆる危険を冒して出漁した。
 たまたま昭和二十年六月二十三日未明
 トドヶ崎南東十五浬付近に於いて操業中
 米国潜水艦の襲撃を受け応戦もむなしく撃沈された。
 軍属船員としての乗組員七名はわかせ身を顧みずその任に励み
 遂に船と運命を共にして戦死した。 
 今謹んで当時を偲び霊を慰める為この碑を建てその冥福を祈るものである。


 昭和三十六年九月  柳原勝紀撰

 本州最東端のとどヶ崎から南東十五浬ということは、1海里=1.852kmですから×15=27.78km 。南東に27.78kmは下記図のあたりです。

 この場所だと女川沖ではありませんね。多数沈められた特設駆潜艇 (特設艦船の部→特設特務艇→特設駆潜艇)の一隻なのかもしれません。

 1945年3月(昭和20年)。

 米海軍の潜水艦「セロ」(wikipedia)が多くの戦果を挙げながら7回目の哨戒で日本近海に向う。
 4月19日、特設監視艇第三五十鈴丸。
 4月22日、特設監視艇2隻。
 4月29日7時58分には釜石湾沖150度24海里の地点でタンカー大修丸。
 5月4日にはとどヶ崎灯台183度4.5海里の地点で神変丸。
 5月13日には北緯39度07分 東経141度57分 の気仙郡吉浜村沖で神南丸。
 5月20日にも北緯38度06分 東経142度24分 の金華山灯台沖で第五関丸(西大洋漁業、377トン)を撃沈した。
 5月27日、セロは56日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投。

 父上はこの第五関丸に乗っておられたと思われます。
 しかし、一番近そうな金華山まででも74kmですから、若かれし頃とは言え、気骨のある方ですね。

 第五関丸は太平洋戦争時の喪失船舶明細表を見ると、

戦没年月日:20/05/20 
区分:C 
 船 名:#5関丸
総トン数:377  
   船主:西太洋漁業
戦没原因:雷撃  
  戦没場所:金華山東南東
戦死者数:船員18人


とあり、区分で第五関丸は海軍徴用船ではなく自営船だったのですね。見つかりにくいはずです。

 

米海軍の潜水艦セロ(USS Cero, SS-225) 

 父上のその後 ★ CATCHER BOAT より


 「戦後、GHQが捕鯨を認めると、父はすぐ横浜の造船所に呼ばれ、徴用された捕鯨船から大砲などの装備を外しにわか捕鯨船団をつくるのに動き回ったそうですが、その時、部品調達にGHQのジープが回されてきて、それに乗って初めて東京の焼け野原を見たそうです。父は当時二十歳前で、今でも鮮明に覚えているといっていました。

 にわか捕鯨船団建造は大変で、当時軍艦はあるのですが、まともな船はなく、又タービンエンジンは捕鯨船に使えないため、やむなくエンジンの足りないのは潜水艦のエンジンを載せたそうです。

 しかし潜水艦のエンジンでは南氷洋の荒波には厳しく良く故障したそうです。とにかくうるさいエンジンだったらしいです。
 日本の潜水艦はUボートなど
に比べ大型の艦が多くエンジンも軸馬力を上げるため無理した設計になって

いたそうです。

 翌年父はノルウェイに捕鯨船の買い付けにも行っています。喜望峰を北上する大西洋は潮が良くジブラルタルまではとても航海しやすい海だそうです。イングランド以北の大西洋は絶えず氷山の危険が伴うのと対照的です。」

東京大空襲

焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川。米軍撮影(昭和20年3月10日?)

東京大空襲

  ↑ 注意)こちらは残酷な写真が含まれます

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうした父上の御苦労もあり、終戦した昭和20年12月に水産統制令が廃止され、西大洋漁業統制株式会社が西大洋漁業株式会社と改称し、同月に大洋漁業株式会社と再び改称して、大洋漁業がいち早く南氷洋捕鯨に向けて一歩前進しました。
 そして1946年(昭和21年)12月。戦後初の南氷洋捕鯨に第一日新丸が船団を組んで長崎より出港したのです。

 

第五関丸沈没

 その後父上は航海士の資格を取り、甲一の免許も取得し、1等航海士となり、昭和48年に共同捕鯨設立時に希望退社したとのことです。その間ノルウェイ1回、南氷洋23回、北洋10回の航海を行っています。戦後の大洋漁業と供に生き切ったという感じですね。
 退職後は実家でカキの養殖業と釣り船屋を経営していました。それが★ あや丸です。
 ただ・・・
 非常に残念な事に、2011年3月11日東日本大震災の津波で、家も想い出の写真も貴重な資料も、全て流されてしまいました。
 大洋漁業所属第十六利丸は、父上が退職時に乗っていた最後の捕鯨船だったそうです。

 

 第十六利丸のその後は一旦父上と離れて1976年(昭和51年)に日本共同捕鯨株式会社で活躍し、1987年に廃船となった後、1988年6月に宮城県石巻市牡鹿町へ戻り、1989年3月25日、牡鹿ホエールランドに展示されます。
 父上にとってはかつての相棒との再会ですね。きっと言い知れぬ喜びがあったことでしょう。

大洋漁業の捕鯨船の船名の由来

 船は、女性名詞であるので、大洋漁業ではオーナーの中部氏の娘さんの名前をつけました。利丸、関丸、文丸。全部で何隻あったかはわかりません。2船団あったと思います。日本全体では全盛期は6船団ありました。現在現役の大型捕鯨船は3隻のみです。ちなみに親父の釣舟『あや丸』は、私の亡き母の名前です。

 より詳しくは★ CATCHER BOAT

 



● 因に、この第十六利丸の初代砲手が世界記録を残した「泉井守一(いずい・もりいち)氏」です。

● 残念な事に、2012年9月20日付けの建設通信新聞 公式記事ブログによると、石巻市は、被災公共施設再建(廃止)方針案で「おしかホエールランド」廃止を発表しました。


 被災公共施設再建(廃止)方針案の対象は、市有施設507棟のうち、津波被害などを受けた155棟。主な施設の再建策では、雄勝と北上の両総合支所は移築にあわせて公民館などと複合施設化を図る。
 石巻地区の文化センターおよび市民会館は、ホールと博物館機能を持つ複合施設として新築、牡鹿地区のおしかホエールランドは廃止し、新設する海の駅に機能を移転する方針だ。
 

 そっくり移転できるのだろうか?
 少々縮小する事に成っても残して欲しいですね。 
 しっかりと歴史を刻んで欲しいものです。

山田町の捕鯨基地

 日本で古式捕鯨発祥の地と

いえば和歌山県の太地町です。

 時は慶長11年(1606年)、

太地の郷士和田家一族の忠兵

衛頼元が尾張師崎(知多半島の

突端)の漁師である伝次と泉州

堺の浪人伊右衛門とともに捕

鯨技術の研究をし、太地浦に

捕鯨基地を開いたのが始まり

です。

 

 太地に遅れること二百年強、18世紀中頃からここ岩手県の山田湾にある大浦 (地図)で、網によるイルカ漁が始まりました。いわゆる追込網という漁法です。山田湾の形がやり易かったのかもしれません。

 山田町の歴史によれば、漁は種々のイルカだけではなく、オットセイ猟、トド猟も行われていたようです。 

 山田町に捕鯨基地が出来たのは、昭和13年(1938年)に岩手県釜石市で創業した柳原水産社が、昭和22年(1947年)に山田町大沢に日東捕鯨株式会社(現デルマール株式会社)として設立した事から始まった。

 その後日東捕鯨は、昭和24年に農林大臣から大型捕鯨の許可を得て、マッコウクジラ、イワシクジラ、さらにシロナガスクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラの捕獲も行う。

  昭和62年、IWCにより商業捕鯨が禁止になり、この年マッコウクジラ87頭、ニタリクジラ5頭の捕獲を最後に山田の捕鯨は幕を閉じました。

 

いずい
小型沿岸捕鯨の事

船のような氷山 船の大きさくらべ 正和丸

砕け散る氷 オーロラ

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