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おやじメモより

 波も高まってきた まだ仕事は終わらない 

 また夕陽がやって来る 出港後早や十七日となる


 これは何の作業をしているのでしょう。
 多分、カゴかも知れませんね。
 内地から届く家族からの荷物や手紙を中積み船から母船へ、さらに母船から各キャッチャーボートへ渡すときに使われるカゴではないかと思われます。もしくは、渡鯨で使うのか?

日新丸 捕鯨準備2 ダーバン港

おやじメモより

 鍛冶場 高知県中屋さんと 工場に必需品を作る 

 6年生

 
 日新丸のなかでは、なんでも自分で作るんだと言っていましたね。確かに。
 6年生は昭和32年です。

                       動画で見る昭和32年 開かれた宇宙世紀

 

                         1月29日 - 日本の南極越冬隊が南極大陸初上陸。

                         1月30日 - 群馬県相馬ヶ原射撃場で薬莢拾いの女性が米兵に射殺される事件発生(ジラー

                            ド事件)。

     気球による空中発射ロケット「ロックーン」打ち上げ。

     国産ロケット「カッパー」K2,K3,K4 打ち上げ。

8月27日 - 茨城県東海村の原子力研究所で原子炉が臨界点に達し、「原子の火」がともる。

     岸総理、東南アジア外交

     岸総理、日米ゴルフ外交

10月1日(日本時間2日)に開かれた国連総会で、安全保障理事会の非常任理事国に日本が当選した。同時に軍縮委員会の構成国にもなった。

     アメリカ軍撤退 7月4日、沖縄基地でジェームス・E・ムーアが初代高等弁務官に就任。軍用地接収が問題となり、那覇市長の

     瀬長亀次郎を布令改正によって追放。

11月     ジラード事件判決(1月30日、群馬県群馬郡相馬村(現・榛東村)で在日米軍

     兵士・ウィリアム・S・ジラードが日本人主婦を射殺した事件)。

     青竹部隊死の行進。

     自衛隊輸送機墜落相次ぐ。

     自衛隊誘導弾 ジローちゃん失敗。

10月4日 - ソビエト人工衛星スプートニク1号打ち上げ成功。

     米国は人工衛星打ち上げ失敗。

12月16日〜NATO首脳会議(パリ)

     米国、ミサイル「アトラス」初成功。

     インドネール首相来日。

     天文台宗教?

     人工衛星時代

 

 捕鯨母船では赤道際が終わり、暴風圏突入までの間に様々な準備があるようですね。波が穏やかなうちに出来る事をするという意味があるのかもしれません。

 第21次南氷洋捕鯨での第十八関丸、弘井武志機関長(Chief engineer : チエンジャー、チュンジャンとも発音される)の日誌には次のように記されていました。

昭和41年11月26日(土)

 午前8時ダーバンの湾外に到着。直ちにパイロットにより入港、着岸する。今日は丁度土曜日で、明日は日曜日であり、商店オール休業、不都合な事なり。午後2時過ぎ給油終わり、海員クラブへ行き若干安い土産物を買い、夜は太平、浜田等と一杯飲み喋る。

昭和41年11月27日(日)

 大して食欲なけれども軽く朝食。今日は土産物も買えず上陸もせず。午後3時頃、一航士が呼びに来る。インド人商人が持参の宝石?4個15ドル(1ドル350円)にて買う。一杯飲んだと思えば安いもの。午後5時に出港。南氷洋へ向かう。風波少々あり。

 

ダーバン

 

 

 

 ダーバン港

 

       ケーブ・ロック

第十八関丸 湾外に到着

陸上スリップウエイ

 南アフリカ共和国のダーバンで給油していたのですね。しかし全捕鯨船がダーバンまで行って給油していたとは考えにくい。通常は第二天洋丸(タンカー)などが南氷洋へ船団用燃料を囲んで来てくれる。この時第十八関丸に何か用事があったのか、タンカーに問題があって海上給油ができなくなっていたのかですね。

 それにしてもこの時代にもう週休二日制だったとは。しかも商店街まで休みとは、日本では考えにくいですね。

 パイロットは水先人のことで、海底の様子を知り尽くした人が座礁しないように船舶を案内する人のことです。

アフリカの捕鯨基地

 ダーバンはかつて捕鯨基地として潤った港です。国内外の消費者に珍重された都市でしたが、日本ではあまり知られていないようです。

 

近代捕鯨史

 ダーバンでの捕鯨は1975年まで続きましたが、その始まりはダーバンのノルウェー領事を務めるジェイコブ(Jacob Egeland)氏がノルウェーに戻ったとき、仲間のヨハンニタリ(Johan Bryde)氏と組んで開業資金を集め、1907年にダーバンで捕鯨会社を起業したことから始まります。二人は捕鯨で有名なノルウェーのサンネフヨル(Sandefjord)からキャッチャーボートを2隻調達し、翌年の1908年に操業開始し、106頭をダーバン港へ運んできました。

 やり方は日本の近海捕鯨と同じで、捕鯨船で捕獲した鯨を港へ運ぶ方法です。ただ日本近海との違いは鯨の大きさです。日本近海に生息する鯨は、マッコウクジラの他は小型のツチクジラなどが多いのに対して、ダーバンで狙えるクジラは回遊時期に入ると大型のシロナガスクジラやナガスクジラ、マッコウクジラ、ザトウクジラ、イワシクジラなどが獲れていました。

 ダーバンの捕鯨シーズンは鯨が南氷洋へ向かう3月- 9月までの期間です。捕鯨船の活動範囲が150マイル(1国際海里=1852m、×150=277.8km )以内といいますから、クジラの豊富な資源を享受できていたといえるでしょう。

 

捕鯨銃

 ノルウェーのキャッチャーボートでは、1864年にスベンド・フォインが開発したロープ付

の銛を発射できる捕鯨砲が設置してあり(ノルウェー式捕鯨)、165ポンド(74.8kg)の金

属銛の先端に火薬を詰めて命中時に先端が開き、銛が抜けないようになっています。この

仕組みで沈んでしまうシロナガスクジラなども捕獲できるようになりました。

 銛はシロナガスクジラを狙う最大(90mm)のものでも60kgですから、この時代のノルウェーの銛は重いですね。

 捕鯨銃の銛の先は、1951年(昭和26年)に、日本が平頭を開発するまではどの国でも鋭く尖っていました。

 命中した鯨には空気を入れて浮かしながらダーバン湾へ運び、湾の入り口にある陸揚げ場所(スリップウェイ)から引き上げられます。

 

製品

 鯨は解体されると鉄道で各製品ごとに運ばれます。鯨油はとても重要な製品でした。その他石鹸、マーガリン、調味料、ローソク、化粧品、医薬品、骨、精巧な機械ワックス、多目的潤滑油、特に日本市場には冷凍鯨肉が輸出されています。また、マッコウクジラからはとっても高価な龍涎香が採取され、高級な香水の定着剤として高値で取引されました。

 

サメ

 捕鯨が始まると鯨肉を狙ってサメが集るようになり、湾内で海水浴を

楽しむダーバン住民にとっては険で不衛生であることから、クジラの

解体場所をケーブ・ロックの外海側に移しました。湾の入り口にあるス

リップウエイか陸にあげられたクジラは鉄道を使っ体工場へ運ば

れるようになります(世界において類がありません)。

 

戦前の全盛期

 1909年に、155頭のクジラを捕獲してダーバン港に持ち込まれたが、これを最後にジェイコブ(Jacob Egeland)氏とヨハンニタリ(Johan Bryde)氏が解散し、ジェイコブ氏がいとこの実業家であるアブラハム·ラーセンと連合捕鯨(Union Whaling Company )と釣りの会社(Fishing Company)を始めました。

 1912年に、クワズール・ナタール州に登録された捕鯨会社は13社にのぼり、捕鯨貿易が非常に有益だったことがわかります。しかし生き残ったのは6社のみでした。

 

第一次世界大戦

 捕鯨会社のほとんどは、第一次世界大戦の結果として倒産しましたが、

プレミア捕鯨社は1919年に再び開始し、1922年に、ジェイコブとラー

センもユニオン捕鯨会社を再開しました。両社はそれぞれ9隻のキャッ

チャーボートを保有し、港ではスリップウェイを共有し、ケーブ・ロッ

ク (CAVE ROCK) の海側に、互いに近接して捕鯨ステーションを持って

ました。

 

鯨用特別列車

 ユニオン捕鯨会社では、陸揚げ場所(スリップウェイ)から鯨の採油場所があるユニオン捕鯨社駅までのおよそ1.5マイル(1マイル=1609.344m、×1.5=2414km)を鉄道で運んでいました。またプレミア捕鯨社も鉄道を使っていました。特注の車両は大型鯨を1頭そのまま乗せることができる平台型車両を2台備えていて、その他小さな鯨も捕鯨駅まで輸送します。

 

鉄道の駅

 1931年に旧ユニオン駅を閉鎖した時、レバー・ブラザーズ(プレミア捕鯨社の所有者)は、その駅を使い、両方の鯨の採油場所を管理しましたが、1953年までにユニオン捕鯨社にすべて売り払いました。ダーバンの捕鯨産業が1975で終わるまで、ユニオン捕鯨社はプレミア駅も使い続けました。

龍涎香
アフリカの捕鯨基地

船 名:Uniwaleco

タイプ:クジラ工場船

トン数:9755トン

完 成:1905 - ハーランド&ウォルフ社、ベルファスト 

所有者ユニオン捕鯨のCo株式会社、ダーバン 

母 港:ダーバン 

攻撃の日:1942年3月7日 

国 籍:南アフリカ

フェイト:U-161によって沈没(アルブレヒトアキレス)

ポジション:13°23'N、62°04'W - グリッドED 6891

補 数:51(18死者と33生存者)

貨物燃料油の8800トン 

歴史:T.&J. Brocklebank株式会社、リバプールイギリス蒸気商人Mahrondaとして1905年8月に完成。

1922年、ノルウェーに売却し、1923年Framnæsメックによって変換。 Værksted、サンデフィヨルド、クジラの工場船捕鯨-A / Sロス海のためのジェームス·クラーク·ロス(ヨハン·ラスムッセン&M.クヌーブ)、サンデフィヨルドへ。

1930は2デンマークを売却し、Fraternitaskompagniet A / SのためFraternitas(APモラー)、コペンハーゲンの名前を変更しました。 1936GötaverkenA / B、Gothenborgその船尾ランプを装備。 1937年南アフリカ共和国に販売し、Uniwaleco連合捕鯨のCo株式会社(AEラーセン)、ダーバンの名前を変更しました。

17.59時間で1942年3月7日にエスコートUniwaleco(マスターヨハネスマリーンズバーナードRosvik)はU-16145マイル西セントビンセント航路のから2魚雷の一つに見舞われた。彼女はサークルで実行したと定住が、沈まなかったので船が明らかに制御不能に行ってきました。 18.14時間で、Uボートは後方クーデターデグレース木製のヒットを発射し、二つに破壊した後、3分で以内に沈むためにここに起因します。 18人の乗組員が失われました。マスターと32人の乗組員は、セントビンセントに上陸しました。

母船式捕鯨

 これまでのダーバンでの捕鯨は、地理的にも恵まれた場所であるため、鯨は主に陸上で解体されてきました。

 アブラハム エミール ラーセン率いるユニオン捕鯨社が、いよいよ南氷洋捕鯨を計画し始める。母船式を導入しようという訳ですね。最初の母船は、1905年に英国で建造されたUniwaleco 号 9755トンを捕鯨母船に改造後、1937年に購入します。これで船団を組み、南氷洋を目指し、南極オフシーズンにはザトウクジラを狙って、マダガスカル周辺海域で操業する予定でした。

 

第二次世界大戦

 しかし、Uniwaleco号は、第二次世界大戦の勃発で海軍によって接収され、後に魚雷によって撃沈します。しかも、戦争が続いている間はキャッチャーボートが掃海艇として南アフリカ海軍が使用していたので、必然的にダーバンでの捕鯨力が減少しました。

 どこの国でも同じですね。

 

捕鯨母船アブラハムラーセン

 1950年。ユニオン捕鯨社は、1937年に建造された英国の捕鯨母船エンペラー ビクトリーを購入し、アブラハムラーセンと改名。以後4ヶ月半の南氷洋捕鯨へ進出し、大きな成果をあげます。

 1954年、南極での操業は非常に成功していました。そして、2200頭のクジラを捕えました。

 1955年11月16日の新聞切り抜きによると、アブラハム・ラーセンとキャッチャーボートが『南氷洋』へ出航する準備をしていると報道されました。

 クヌッセンさん(主任幹事)は、母船の4ヵ月半の航海に対する準備が190万タバコ(cigarettes)、2000ポンドのタバコ(tobacco)、1015本の蒸留酒(spirits)、80ガロンのラムと267000ポンドのバターを含むと伝えています。

 

ユニオン捕鯨社と大洋漁業

 南極の多くの国による無制限の捕鯨(オリンピック方式)はクジラの個体数の減少につながり、わずか7シーズンの後、ユニオン捕鯨社は南極捕鯨を断念して日本人にアブラハム・ラーセンを売ることを決定しました。

 大洋漁業は1997年ユニオン捕鯨社からアブラハムラーセン(23326トン)を購入し、27035トンに改良してから第二日新丸(二代目)と改名する。 

 

飛行機時代

 ダーバンに拠点を置くキャッチャーボートは、捕鯨母船売却した後も捕鯨をし続けました。そこに登場したのが飛行機です。探鯨を空から飛行機で行い、無線でキャッチャーボートに伝えるという1954年の決断は非常に成功していることがわかりました。

 航空機事業会社はクルーを提供し、航空機と最

初の飛行は双発のデ・ハヴィランDH89Aド

ゴンRapide航空機でパイロット:ン・ピンカー

トンとオブザーバー:エイブラハム・ラーシェン

[ユニオン捕鯨社創設者でない]によってダー

バンのスタムフォード・ヒル空港から飛びちま

した。

  1963年のニュース報道によると、はじめは10

日間の実験フライトでしたが、その後は航空機が

クジラ-スポッティング任務でほぼ100万マイル

(1,852,000km 地球46.3周分)飛行し、11,874頭

のクジラを発見。そして、これらのほぼ半分

キャッチャーボートが捕獲したと記録されています。これは大きな成果です。

 

悪臭

 母船を使わないということは、その分の鯨を陸揚げすることになり、ダーバンでの捕鯨初期に漂っていた臭いも復活することになります。鯨の採油場所に起因する臭いが主な問題ですが、人々が駅のまわりや採油場所の周辺に住みつき始めたあとでは、その不満も増え始めました。

 1965年に、ユニオン捕鯨社は、肉乾燥設備からにおいを除くために R65000

 (ランドは南アフリカの通貨) を臭い除去器材に費やしました。

 

 昭和41年(1966年)に第十八関丸が給油のために入港した頃、臭いは改善されていたのだろうか。相当臭っていたようですね。

 1974年4月23日のデイリーニュースによれば、臭いについて近隣住民から不満が寄せられたと報道されています。これに対してSurmonさん(連盟捕鯨の共同の常務)は、暖かくて蒸し暑い天気ですが、ほとんど風が臭いを吹き飛ばすという趣旨の発言をしている。彼は、問題は鯨の採油場所の煙突でほとんど解決している。同社の信頼できる煙突はなんとか95%臭いを減らすことができました。しかし、それが完全に除かれるかどうかについては、疑問に思うと発言。

 

ユニタス(Unitas)の船歴
1937年 当時世界最大と称されていた英国の捕鯨母船テリエヴィーケン号の姉妹船として建造された。ユニリーバ・グループのメンバーが所有し、 ハンブルクのユニタスドイツ捕鯨社が運営した。最初のシーズン1937年から1938年は、鯨1715頭を捕獲し鯨油2万トン生産された。

1939年から1940年シーズンは、第二次世界大戦の勃発によってキャンセルされた。

1945年1月、難民の輸送に使用。
1945年 エンペラー ビクトリー と改名。
1950年 ダーバン連合捕鯨会社に売却、アブラハム ラーセンと改名。
1957年 日本の大洋漁業に売却、第二日新丸と改名。23326トンから27035トンへ改装。
1961年 10月30日にソロモン海域で火災が発生し、キャッチャーボートで日本の佐世保重工業に曳航され修復。
1965年 捕鯨母船として最後の南氷洋捕鯨から帰国。
1967年 魚の加工工場として使用され、1987年に台湾で廃船 。

潜水艦探知機

 ある時期からキャッチャーボートの中には、鯨を見つけるためにASDIC(潜水艦探知機)を取り付けて操業するものが現れた。しばしば秘密の海中行動をしている潜水艦を発見する事もある。逆に潜水艦は捕鯨船のことを南アフリカ海軍へ報告していたと聞く。

 日本では第十二次(1957年、昭和32年出港)南氷洋捕鯨でのテスト結果が良かったので、次の第13次南氷洋捕鯨から本格的に鯨探知機が採用されました。ダーバン捕鯨船のASDICと同じかどうかは不明です。

 

ヒゲ鯨の減少

 1963年、南氷洋ザトウ鯨(ヒゲ鯨)の捕獲禁止。 
 同年イギリスが捕鯨中止。

 1964年、南氷洋シロナガス鯨(ヒゲ鯨)の捕獲禁止。

 ヒゲ鯨の減少が深刻になっていた頃、ユニオン捕鯨会社も1967年にR400,000 (ランドは南アフリカの通貨) の損失を作りました。同社はスタッフやキャッチャーボートを大幅に削減し、なんとか次の年の間にR80,000 の利益を上げることができました。

 

鯨は賢いから殺してはいけない

 自然保護運動が世界中で起こると、その勢いは増していった。南アフリカの捕鯨産業にとっても大きな壁となり、特に1940年に捕鯨から撤退していたアメリカからの圧力は、まるで捕鯨を禁止する為にあるようなものだったと伝えられています。ユニオン捕鯨社は生き残ると固く決心して、彼らは必要な原材料を他の情報源へ求めるプログラムを開始しました。

 

第4次中東戦争

 1973年10月6日にエジプト軍とシリア軍が南北からイスラエル占領地を攻撃し、第4次中東戦争が始まった。アラブ産油国が石油輸出を停止したため、原油価格が高騰し、世界に衝撃を与えた。この石油禁輸は1974年春には完全に撤廃される。日本ではオイルショックと云われ、商店からトイレットペーパーが消え、日曜日にガソリンスタンドが休みになりましたね。

 中東石油禁輸の結果として価格高騰の波がユニオン捕鯨社を襲った1974年は、キャッチャーボートに使う燃料を1日8から16トンと決め、捕鯨基地ではウインチを蒸気で動かし、様々な節約法を工夫しました。

 ピーターフルード(会社の最後の工場長)によれば、燃料油が1970年にだいたいR8/トンだったのに対し、1974年にはR60/トンに高騰したという。

 この時開発した Fuel Firing Systems は、使用済み潤滑油から燃料をつくることで、同社の多くの燃料代を削減しました。 しかし、原料と燃料油の二次供給者を見つける事ができなかったので、アブラハム·ラーセンは、1975の捕鯨シーズンの終わりに活動を停止して、資産を売却し、会社が売却されました。

 

 その後は市内の捕鯨博物館の設立に努力するものの失敗に終わります。各キャッチャーボートもバラバラになり、売却されるもの、海賊捕鯨を目指すもの、海軍の演習で標的にされて沈没されるなどして、ダーバン捕鯨基地は幕を閉じる事になりました。

ユニオン捕鯨
アブラハムラーセン

南アフリカ共和国の歴史

 

サン人とコイコイ人とバントゥー系諸民族

 南アフリカ共和国は、紀元前数千年頃から、1981年の映画「ニカウ主演の『ミラク

ル・ワールド ブッシュマン』」で有名な狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と、同系

統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す

者の意)が居住するようになった。また、300年 - 900年代に現在のカメルーンに相当

する赤道付近に居住していたバントゥー系諸民族が南下し、現在の南アフリカに定住

した。

 

ポルトガル人とオランダ人

 これで終わればよかったのだが、ヨーロッパで大航海時代が始まった15世紀末の1488年になると、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達し、1652年には「オランダ東インド会社」のヤン・ファン・リーベックがこの地に到来した。喜望峰は航海上の重要な拠点(中継基地)として注目された上、気候も比較的ヨーロッパに似ていたので、以後オランダ人移民が増加し、ケープ植民地(ケープタウン)が成立した。

 

カラード

 このケープ植民地にて形成されたボーア人(オランダ系白人、フランスのユグノーその他:Boer アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、以下ボーア人で統一)勢力の拡大と共に、コイ人やサン人などの先住アフリカ人との争いが起きた。一方で、ボーア人と先住民や奴隷との混血も進み、後にカラードと呼ばれることになる民族集団が生まれた。

 

イギリス人

 18世紀末には金(世界の半分を産出)やダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来した。ボーア人とイギリス人は白人同士で対立し、フランス革命戦争中の1795年にイギリスのウィリアム・ベレスフォード(英語版)将軍がケープタウンを占領した。イギリス紳士ってなんだ?

 ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住し港(ダーバン)の開発が始まる。

 ダーバンでは1850年代に鉄道が建設され、港湾が拡張されて以後、商工業都市として急速に発展する。

 

アフリカーナー

 イギリスの植民地になり英語が公用語となる。同国の司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まった。イギリス人の増加と共に英語を使えなかったボーア人(オランダ系白人:オランダ語およびアフリカーンス語で農民の意。)は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになった(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。

  1834年12月1日にイギリスが統治するケープ植民地内で奴隷労働が廃止されると、奴隷制に頼っていたアフリカーナー(オランダ系白人)の農業主は、この奴隷制度廃止措置に反発し、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始した(グレート・トレック)。

南アフリカ

先住アフリカ人とアフリカーナー

 アフリカーナー(オランダ系白人)バントゥー語を使う1つの大きな言語集団(400以上の民族)であるバントゥー系のズールー人やンデベレ人、スワジ人、ツワナ人など先住アフリカ人諸民族と戦いながら内陸部へと進みナタール共和国(1839年建国)や、トランスヴァール共和国(1852年建国)、オレンジ自由国(1854年建国)などのボーア諸共和国を建国した。

 

ボーア戦争

 しかし、セシル・ローズに代表されるように南アフリカ全土を領有することを求め

たイギリスとの対立から二度に亘るボーア戦争に発展し、第一次ボーア戦争ではアフ

リカーナーの両国がイギリスを退けたが、第二次ボーア戦争(1899年 - 1902年)では

敗北し、それらも全てイギリスの手に落ちた。

 アフリカーナーのみならず、独立していた先住アフリカ人諸民族のアフリカーナー

とイギリス人双方に対する抵抗も続いたが、1879年のズールー戦争のように抵抗した

民族は全て敗れ、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。

 1910年5月31日に、ケープ州、ナタール州、トランスヴァール州、オレンジ州の四州からなる南アフリカ連邦として統合され、イギリス帝国内のドミニオン(自治領)としてアフリカーナーの自治を確立した。

 

人種主義法

 翌1911年には、鉱山における白人・黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で統一することを目的とした、白人労働者保護のための最初の人種主義法である「鉱山・労働法」が制定された。それからも人種差別法の制定は続いた。

 1931年にはウェストミンスター憲章が採択され、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の主権を獲得。1934年にはイギリス国会で南アフリカ連邦地位法が可決され、正式に主権国家として規定された。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、南アフリカ連邦は連合国の一員として参戦した。

イギリスの強制収容所に送られたボーア人の女性と子供。イギリスによって建設されたこの強制収容所は、20世紀の世界各国で建設された強制収容所の先駆となった。

アパルトヘイト

 1948年にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする国民党が政権を握り、ダニエル・フランソワ・マランが首相に就任すると、国民党はアパルトヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。

 国際連合の抗議やアフリカ人民評議会などの団体の抵抗にもかかわらず、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかった。国際関係としては、反共主義を押し出し、自由主義陣営として朝鮮戦争に軍を派遣した。

 1958年にマランに続いてヘンドリック・フルウールトが首相に就任すると、南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。他方、国内では人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議 (ANC) による民族解放運動が進み、ゲリラ戦が行われた。

 

名誉白人

 1960年のシャープビル虐殺事件をきっかけに、1961年にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、イギリス連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。

 一方で日本人は白人ではないにも関わらず白人であるかのように扱われる名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深い繋がりを持つことになった。また、世界的に脱植民地化時代に突入していたのにも拘らず、このように露骨な人種主義政策を採り続けたために、域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため、同様に域内で孤立していた白人国家ローデシアや、アフリカに於ける植民地帝国の維持を続けるポルトガル、そして強固に反共政策を採っていた中華民国(台湾)や、汎アラブ主義の波に対抗していたイスラエルとの結び付きを深めた。

 

世界遺産?

 ロベン島にある刑務所は

反アパルトヘイト運動に

り反逆罪として逮捕された

政治犯の強制収容所として

使われ、ネルソン・マンデ

ラやウォルター・シスール、

ロバート・ソブクウェ等が

収監された。ロベン島は

1999年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録

れた。

 

ナミビア独立戦争

 1966年にフルウールトが暗殺された後、バルタザール・フォルスターが次代の首相に就任した。フォルスター政権成立に前後して同年8月より占領していたナミビアでも独立を目指すSWAPOによるナミビア独立戦争(1966年-1990年)が始まった。

 

カーネーション革命

 さらに、1974年に植民地戦争によって疲弊したポルトガルでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制が崩壊して左派政権が誕生して植民地の放棄を打ち出すと、近隣の旧ポルトガル植民地だったアンゴラとモザンビークは社会主義国として新たなスタートを切り、両国は南アフリカとローデシアの白人支配に対するブラックアフリカ諸国の最前線(フロントライン諸国)となった。

ミリアム・マケバ(Miriam Makeba, 1932年3月4日 - 2008年11月10日)は南アフリカ共和国の歌手でグラミー賞受賞者。ママ・アフリカの名前でも知られている。

 1967年に反アパルトヘイト活動で、国外追放される。1969年にギニアのセク・トゥーレ大統領に招かれ、夫であり黒人運動活動家のストークリー・カーマイクルとともにギニアに移る。大統領の支援を受け、カンテット・ギネエンヌとともに演奏活動を行った。

ヒュー・ラモポーロ・マセケラ(Hugh Ramopolo Masekela)は南アフリカ共和国出身のトランペット;フリューゲルホーン;コルネット奏者、作曲家で歌手。

ラッキー・デューベ (Lucky Dube, 1964年8月3日 - 2007年10月18日) は南アフリカ共和国のレゲエ歌手。ズールー語、英語、アフリカーンス語を使い、25年にわたる活動を経て22枚のアルバムを発表し、南アフリカで最も人気のあるレゲエアーティストとして知られていた。  

 2007年10月18日、ヨハネスブルグロゼッテンビル地区で強盗に襲われ殺害された。

 本場ジャマイカのジミー・クリフやピーター・トッシュらのレゲエに影響を受けたデューベは、アパルトヘイト政策下の南アフリカで社会的・政治的なメッセージの込められたレゲエを歌い始めた。

 新しいジャンルに挑戦することを決めた彼は1984年にミニアルバム『Rastas Never Die』をリリースした。しかし、彼のンパカンガ作品が平均3万枚売れていたのに対し、本作はたった4千枚しか売れなかった。これは当時反アパルトヘイト運動に敏感だった南アフリカ当局が本作を発売禁止にしたからであった。

 そのような困難にも関わらずデューベはライブやレコーディングでレゲエを演奏し続け、1985年には再びレゲエに取り組んだ『Think About The Children』をリリースした。この2枚目のレゲエアルバムはプラチナム・ヒットとなり、彼は南アフリカで最も有名なレゲエミュージシャンとしての地位を確立した。

Lucky Dube,Mama

ロベン島の刑務所

ソウェト蜂起

 南アフリカとローデシアは、強行に国内を引き締める一方、両国に対して直接、間接の軍事介入を行い、両国を苦しめた。更に国内でも、1976年にソウェト蜂起が勃発し、この黒人蜂起に対するフォルスター首相の対応は国際的な批判を浴びることになった。

 

アパルトヘイト撤廃

 1980年にローデシアはローデシア紛争の末に白人政権が崩壊して新たに黒人国家ジンバブエが成立し、反共のための戦いから脱落した。

 一方、白人中心の南アフリカ防衛

による直接介入が行われていたアンゴ

ラでも、キューバやブラックアフリカ

諸国に支援されたアンゴラ政府軍の抵

抗が続き、戦争は泥沼の様相を呈して

いた。国内でも1980年代には反体制運

動が激しくなり、さらにそれまでの反

共的姿勢から南アフリカを優遇してい

た西側諸国からも国際的に経済制裁を

受け、南アフリカ内外で反アパルトヘ

イト運動が高まった。

 1988年にはクイト・クアナヴァレの戦い(英語版)でアンゴラ=キューバ連合軍にアンゴラ領内への侵攻を阻止され、この戦いをきっかけに南アフリカはキューバ軍のアンゴラからの撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。軍事的敗北により、アパルトヘイト体制は風前の灯火となっていた。

 このような情勢の悪化もあり、デ・クラーク大統領は冷戦の終結した1990年代に入ると、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。また、同時に1970年代から1980年代にかけて6発の核兵器を密かに製造・配備をしていたが、核拡散防止条約加盟前に全て破棄していたことを1993年に発表した。

 

民主主義のはじまり

 1994年4月に、同国史上初の全人種参加の総選挙が実施されアフリカ民族会議 (ANC) が勝利。ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。副大統領に、ANC(アフリカ民族会議)のターボ・ムベキと国民党党首のデ・クラーク元大統領が就任。アパルトヘイト廃止に伴いイギリス連邦と国連に復帰し、アフリカ統一機構(OAU)に加盟した。マンデラ政権成立後、新しい憲法を作るための制憲議会が始まり、1996年には新憲法が採択されたが、国民党は政権から離脱した。

 

教育問題

 アパルトヘイトが撤廃された21世紀になっても、依然として人種間失業率格差が解消されないでいた理由は、アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことが最も大きな要因と考えられる。アパルトヘイト撤廃によって、即日、雇用平等の権利を得たとしても、当時の労働人口の中心となる青年層は既に教育水準の差が確定してしまっており、アパルトヘイト時代に教育を受ける機会を得られなかった国民は、炭坑労働者など、雇用が不安定な業種にしか職を求めることができなかった。

 さらに鉱山は商品市況によって、炭鉱労働者の雇用または解雇を頻繁に行うこともあって、黒人の失業率は白人のそれと比べて非常に高い統計結果がでてしまうのである。

 しかし撤廃後12年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡したことで、白人・黒人間の失業率格差は縮小しつつある。また政府は、単純労働者からIT技術者の育成など技術労働者へ教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。

 今後、失業率の問題は、人種間失業率格差から、数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、犯罪率も高く、多くの過激派組織も活動している点は否定できない。

 また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、特に隣国の一つジンバブエからの移民が急増し、国内に住む黒人の失業率が増加する結果になり、大規模な移民排斥運動も起こり始めている。さらに、黒人への優遇政策により、これまで要職に就いていた白人が押し出される格好になり、白人の失業率が上昇することになった。

 

 良くも悪くも、教育が変わらないと国は変わりませんね。しかも建設には時間がかかる。

 ある小学校の先生に「40年後の日本を作る仕事ですね」といったら「はっ?」と言われてしまった。

ザンビア

アンゴラ

南アフリカ

ナミビア

ジンバブエ

参考資料:南アフリカ共和国 

    :ダーバン

    :『ミラクル・ワールド ブッシュマン』

    :バントゥー系民族

    :カメルーン

    :バルトロメウ・ディアス

    :オランダ東インド会社

    :ヤン・ファン・リーベック

    :喜望峰

    :アフリカーナー

    :グレート・トレック    

    :ズールー人

    :ンデベレ語

    :スワジ人

    :ツワナ人

    :ナタール共和国

    :トランスヴァール共和国

    :オレンジ自由国

    :セシル・ローズ

    :ボーア戦争

    :ズールー戦争

 

参考資料:Whaling in Durban

    :ユニオン捕鯨会社

    :Uniwaleco 南アフリカのクジラ工場船

    :ユニタス(船、1937)     :

 

 

 

 

 

 

    :ウェストミンスター憲章

    :アパルトヘイト

    :ダニエル・フランソワ・マラン(白人)

    :ヘンドリック・フルウールト(白人)

    :シャープビル虐殺事件   

    :バルタザール・フォルスター    :

    :ロベン島

    :ナミビア独立戦争

    :カーネーション革命

    :エスタード・ノーヴォ

    :アンゴラ

    :モザンビーク

    :ローデシア

    :ブラックアフリカ

    :ソウェト蜂起

    :ジンバブエ

    :南アフリカ防衛軍

    :キューバ

    :デ・クラーク大統領

    :ネルソン・マンデラ

    :ターボ・ムベキ

 

波と戦うキャッチャーボート

第十一次南洋捕鯨出漁記念

クジラの回遊図

ダーバン

シロナガス

クジラ

ナガス

クジラ

ホッキョク

クジラ

ザトウ

クジラ

コク

クジラ

 

 

シロナガスクジラは全海域で目撃されるものの、回遊コースはまだ分かっていません。傾向性として小さいクジラほど海岸の側を回遊しているので、大きさから一番海岸から離れているコースを通っている可能性があります。

日新丸 暴風圏を行く

日新丸 捕鯨準備

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