top of page

青森駅にて 精油課の友

おやじメモより

 青森駅にて 精油課の友

右がおやじです。もしかして3号車の前?

 昭和29年は、東京タワーが 1958年(昭和33年)
10月14日竣工、同年12月23日に完工式が開かれているので、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」よりちょい前ですね。

 このころ上野ー青森間を走っていたのは電車ではなく汽車(SL)。
 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」撮影記によると、あの鉄橋を走って来たのは [C62 22] という実際に活躍していた蒸気機関車の模型です。
 ←急行「みちのく」をけん引している設定のようです。

  編成は昭和27年10月1日~昭和29年9月31日の間は次の通りでした。

 ←上野 [荷物車:スニ30]  =    [1号車:スハ43]  =   [2号車:スハ43]  =  [3号車:スハ43]      =

 

      [4号車:スハ43]    =  [5号車:オハシ30]  =   [6号車:オロ36]   = [7号車:スロ51]   =青森→

 

←上野 =   [8号車:オロ41]   =    [9号車:スハ43]   =   [10号車:スハフ42]  = 仙台→


←仙台=     [8号車:スロ51]  =   [9号車:スロハ32]   =    [10号車:オハ35]   =  [11号車:オハフ33] =青森→

★ 仙台←→青森の8号車から11号車は仙台から急行「青葉」に変わります

★ [5号車:オハシ30] 戦後初の日本人向け食堂車(3等食堂車)、車内配置は前位から順に洗面所・便所、

 3等室(定員24名)、食堂(定員18名)、調理室、物置。

★ イラストは旧型客車のページから使用許可を頂きました。大変ありがとうございます。

 

 

 

 

 上野←→青森間の機関車は昭和25年からC61C62などが活躍していました。

 wikipedia によると、1946年(昭和21年)2月に、 GHQの指令により連合軍専用列車が上野 - 青森間・函館 - 札幌間に新設。後に両列車は総括して「Yankee Limited」(北部特急)の列車愛称が付けられた。同列車は時刻表には掲載されない米軍用の特殊列車で青森 - 函館間は青函連絡船に寝台車の一部を乗客ごと積載航送とした。同年7月からは東京駅発着となり、さらに11月には横浜発着となった。
 GHQですよねぇ、、。

 1948年(昭和23年)7月1日 ダイヤ白紙改正。上野 - 青森間直通急行は東北本線経由の103・104'列車、常磐線経由の201・202列車が復活し、12月には201・202列車に特別寝台車(後の1等寝台車)を連結。

 1950年(昭和25年)10月 日本人用列車で201・202列車が運行再開。11月には201・202列車が「みちのく」、203・204列車が「北斗」の東北本線・常磐線の日本人用列車では初の列車愛称を命名されるとともに、「みちのく」では1等寝台に限り函館 - 札幌間急行1・2列車からの青函連絡船客車航送連絡を開始。

 1951年(昭和26年)6月 津軽海峡に朝鮮戦争による浮流機雷が流入した影響で安全確保のため青函連絡船夜行便の運航は夜明け以降に限られ、接続列車時刻の大幅な繰り下げや不接続などダイヤ変更を実施。

 1952年(昭和27年)4月 「Yankee Limited」が日本人にも乗車券の一部を販売するようになり、「特殊列車」となって列車愛称を廃止。「みちのく」での客車航送は廃止され、「特殊列車」のみでの実施となった。なんと日本人に完全開放されたのは1954年(昭和29年)10月1日からでした。日本なのに、、、。

  集団就職列車は1954年(昭和29年)4月5日15時33分青森発上野行き臨時夜行列車から運行開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。
 このころの青森ー上野間は、およそ14時間以上だったと思われます。エアコンは一等車、精々二等車まででしょう。トンネルでは蒸気機関車が吐く煙が車内に入らぬよう窓を下ろしたり、多くの人にとって、とんでもない旅だったろうと思います。
 1958年(昭和33年)10月10日に「はつかり」が誕生したことで、それまでの急行「みちのく」の所要時間を約2時間短縮して12時間となりました。もちろんC61とC62が力強く客車を引っ張っていました。.

特殊列車

 「 鉄道と旅,1970s」さんから写真をお借りしました^^ 年代はちょっと違いますが、当時の青森駅もこのまんまの姿だったと思います。SLファンの方は是非一度「 鉄道と旅,1970s」のブログを覗いてみて下さい。よく見ると1両目はスニ30らしき車両ですね。
 
 そして海では、1954(昭和29年)09.26 台風15号(マリー)で青函連絡船「洞爺丸」ほか5隻が沈没という大きな事故が有りました。死者・行方不明者あわせて1155人という日本海難史上かつてない大事故として記録に残っています。洞爺丸

どうや丸

(とうやまる)は、戦災で壊滅した青函連絡船の復興のため、国鉄がGHQの許可を受けて建造した車載客船4隻のうちの1隻です。戦後復興まっただ中の出来事ですよね。1988年(昭和63年)に青函トンネル(全長53.85 km)が開業するまでは、青函連絡船が国鉄の列車をそのまま運んでいました。

 

 東海道新幹線開通、東京オリンピクまで

あと4年の頃ですよねぇ~。

 青森ー上野が電化されるまで(昭和43年)、あと約14年です。

 東北新幹線全線開通まで(平成22年)、

あと56年です。

 

←青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 

 可動橋・車両搬入口 (2014.7.26撮影)

しらさぎ城 第五福竜丸

くじら号

参考資料:鉄道と旅 1970s

     C61C62

     連合軍専用列車

     旧型客車のページ

特殊列車

1954年 昭和29年を振り返る

おまけ 動画で見る戦後の国鉄

 

「ごちそう列車」日映科学映画製作所1853年製作

1954年制作 つばめを動かす人たち

1948年制作 「立ちあがる輸送」 国鉄戦災復興の記録

雪と闘う機関車 1/2

出港準備

雪と闘う機関車 2/2

命がけだった! 上野行724列車 

高崎ー東京 - 1960

昭和30年 楽しい修学旅行.

でも 命がけ

文丸と利丸

bottom of page