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青函連絡船

おやじメモ なし

 さっぱり分からなかったこの写真。よくよく見ると煙突のファンネルマーク工部省の工マークですね。このマークは後の鉄道省まで使われ、昭和11年に鉄道省は関釜連絡船の鉄道連絡船として金剛丸を造船しました。その金剛丸型によく似ていると思ったのですが、見れば見る程違いがあり、金剛丸型よりも一回り小さな船だろうと思われます。

金剛丸

 そこで、青函連絡船を調べてみました。

 wikipedia によると。1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、青森県の青森駅と北海道の函館駅との間を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の航路(鉄道連絡船)である。

1908年(明治41年)

3月7日

 

 

 

 

4月4日

1914年(大正3年)

12月10日

 

1924年(大正13年)

5月21日

 

10月2日

10月11日

 

11月11日

 

12月30日

 

1926年(大正15年)12月12日

 

1927年(昭和2年)

6月8日

1929年(昭和4年)

7月8日

1930年(昭和5年)

9月1日

1931年(昭和6年)

10月5日

1934年(昭和9年)

3月21日

 

 

1939年(昭和14年)

11月25日

 

1943年(昭和18年)

3月6日

 

1944年(昭和19年)

1月14日

 

3月19日

 

 

7月20日

 

 

11月22日

 

 

1945年(昭和20年)

2月27日

3月6日

 

6月1日

7月14日

 

7月15日

8月8日:

8月9日:

8月10日

8月15日;

8月20日:

10月9日

10月

 

1946年(昭和21年)

4月22日

 

 

5月15日

7月1日

 

7月23日

10月14日

1947年(昭和22年)

9月23日:

11月21日

12月12日

 

 

1948年(昭和23年)

2月27日

4月7日

5月1日

7月26日

8月27日

10月21日

11月27日

12月16日

1949年(昭和24年)

6月1日

1950年(昭和25年)2月3日

9月:

1951年(昭和26年)

5月9日

 

 

5月19日

1952年(昭和27年)

4月1日

 

1953年(昭和28年)

4月5日

1954年(昭和29年)

9月26日

 

 

 

 

1955年(昭和30年)

9月16日

9月18日

1956年(昭和31年)

4月1日

8月31日

1957年(昭和32年)

10月1日

 

1961年(昭和36年)

7月

 

1964年(昭和39年)

5月8日

5月10日

 

 

 

 

 

7月12日

 

 

8月12日

8月31日

9月17日

 

 

10月1日

10月26日

11月30日

12月1日

12月31日

1965年(昭和40年)

5月16日

6月20日

6月30日

7月2日

8月5日

8月31日

9月30日

10月

1966年(昭和41年)

10月1日

11月1日

1967年(昭和42年)

5月6日

6月1日

 

 

9月27日

 

1969年(昭和44年)

9月20日

10月1日

1970年(昭和45年)

3月31日

4月6日

6月30日

1970年代前半

 

1973年(昭和48年)

1975年(昭和50年)8月27日 - 8月31日

 

1976年(昭和51年)

2月27日

4月5日

7月5日

8月5日

1977年(昭和52年)

3月18日

5月6日

1978年(昭和53年)

10月1日

1980年(昭和55年)

7月21日

10月1日

1982年(昭和57年)

3月4日

3月31日

10月1日

11月12日

1984年(昭和59年)

1月31日

3月3日

7月7日

1986年(昭和61年)10月6日

1987年(昭和62年)

2月1日

3月1日

4月1日

 

1988年(昭和63年)

1月6日

3月1日

3月12日

3月13日

 

 

 

 

 

 

6月3日

9月18日

9月19日

帝国鉄道庁(国鉄)が運航を開始。最新鋭の蒸気ター

ビン船比羅夫丸」(ひらふまる)が就航し、青森 -

函館間を4時間で結んだ。鉄道直営の津軽海峡連絡船

自体は日本鉄道によって計画され、連絡船自体も同社によって発注されていたが、就航は同社の国有化後になった。

田村丸」就航(比羅夫丸の姉妹船)

初の鉄道車両艀(無動力船)「車運丸」が就航。

限定的に貨車航送を開始。

日本初の自航形鉄道車両渡船「翔鳳丸」が就航。1945年(昭和20年)

7月14日、空襲沈没

「比羅夫丸」が着岸し、乗客岸壁からの乗下船を開始。

津軽丸」(初代)車載客船 翔鳳丸型が就航。1945年(昭和20年)

 7月14日、空襲沈没

松前丸」(初代)車載客船 翔鳳丸型が就航。1945年

(昭和20年)7月14日、空襲炎上座礁

飛鸞丸」車載客船 翔鳳が就航。1945年(昭和20年)

 7月14日、空襲沈没

 

第一青函丸」貨車航送船 青函丸戦前型が就航。1945年(昭和20年)7月15日、空襲沈没.

車運丸」が終航。

比羅夫丸」・「田村丸」が大阪商船に売却。

第二青函丸貨車航送船 青函丸戦前型が就航。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没

 

青森 - 函館間直通の荷物車を航送開始。

 

低気圧による荒天で浸水・座礁など相次ぎ被害多数。「飛鸞丸」は浸水による操舵困難に加え、アンテナ線が切れたため通信不能となって一時遭難が疑われる事態となった。なお、この日は函館大火が発生している。

 

第三青函丸貨車航送船 青函丸戦前型が就航。

1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没

 

第四青函丸貨車航送船 青函丸戦前型が就航。

1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没

 

第五青函丸貨車航送船 W型戦時標準船が就航。1945年(昭和20年)3月6日、強風により接岸に失敗して沈没

第六青函丸貨車航送船 W型戦時標準船が就航。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没。1947年(昭和22年)2月2日、浮揚復航し車載客船化。1964年(昭和39年)5月3日、終航。同年8月、三菱商事に売却。

第七青函丸貨車航送船 W型戦時標準船が就航。1947年(昭和22年)9月、デッキハウスを造設し車載客船化。1964年(昭和39年)12月31日、終航。1965年(昭和40年)8月、三井物産に売却。

第八青函丸貨車航送船 W型戦時標準船が就航。1946年(昭和21年)4月30日、デッキハウスを造設し車載客船化。1964年(昭和39年)11月30日、終航。1965年(昭和40年)1月、日綿実業に売却。

 

就航予定だった「第九青函丸」が函館へ回航中、千葉県勝浦沖で座礁・沈没

青森港内にて、戦時設計(戦時標準船W型)の「第五青函丸」が防波堤に接触し沈没。死者・行方不明者82名。

第十青函丸貨車航送船 W型戦時標準船が就航。同年7月14日、空襲沈没

アメリカ海軍艦載機の空襲により全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態となる。

第一青函丸」がアメリカ海軍艦載機の空襲により沈没

午前8時15分、アメリカ軍が広島市にウラン235原子爆弾リトルボーイを投下した。

午前11時02分、アメリカ軍が長崎市にプルトニウム239原子爆弾ファットマンを投下した。

亜庭丸」が陸奥湾でアメリカ海軍艦載機の空襲により沈没

敗戦 玉音放送

景福丸」元・関釜連絡船が転属就航。

第十一青函丸」貨車航送船 W型戦時標準船が就航。

伝染病の伝播防止のため乗船客に対しDDT散布を義務付け。1950年(昭和25年)4月まで実施。

 

連合軍専用列車1201・1202列車を上野駅 - 札幌駅間で運転開始。青森駅 - 函館駅間は青函連絡船(当時はW型船、後H型石狩丸も加わる)に客車を積み込ませたが、これが初の客車航送となった。この列車は後に「Yankee Limited」(北部特急)と命名されている。

第十二青函丸貨車航送船 W型戦時標準船が就航。

青森県小湊にLST用岸壁完成。翌2日より函館 - 小湊間で貨物車両航送を開始(1948年(昭和23年)2月まで運航)。

石狩丸」(初代)が就航。

函館桟橋駅の戦災復旧工事を開始。

 

「昌慶丸」元・関釜連絡船が転属就航。

洞爺丸車載客船 洞爺丸型が就航。

吹雪・大シケで出航見合わせ中にRTOの顧問が進駐軍専用船の石狩丸に函館出航を命令。難航の末丸一日がかりで青森に到着する事態に。この事態を受けてRTOの船舶管理部への対応が見直される事になった。

1948年(昭和23年)

北見丸貨車航送船北見丸型が就航。

十勝丸」(初代)貨車航送船石狩丸型が就航。

羊蹄丸」(初代)車載客船 洞爺丸型が就航。

渡島丸」(初代)貨車航送船石狩丸型が就航。

摩周丸」(初代)車載客船 洞爺丸型が就航。

日高丸」(初代)貨車航送船北見丸型が就航。

大雪丸」(初代)車載客船 洞爺丸型が就航。

日本人も乗車できるマイネ40形1等寝台車航送を洞爺丸型で開始。

 

日本国有鉄道法施行に伴い、公共企業体日本国有鉄道(国鉄)に移管。

 

連絡船内にて、食堂の営業を開始。

渡島丸(初代)と洞爺丸が同時に日本の商船初のレーダーを取り付け。

 

津軽海峡への浮流機雷流入に伴い、連絡船の夜間運航中止。約5年間に渡って断続的に旅客便の夜間運航の中止(乗船客は船内待機、夜明けを待って出港)、接続列車の不接続など運航ダイヤの混乱が続いた。連合軍専用列車の寝台車航送も休止。

洞爺丸型によるマイネ40形1等寝台車航送休止、以後再開されず。

 

連合軍専用列車1201・1202列車が特殊列車に改称。日本人の乗車も許可され、同列車のマイネフ38形1等寝台車の航送再開。

 

函館桟橋駅の出札再開に伴い、本州方面の乗車券発券を函館駅から同所に変更。

 

台風15号(洞爺丸台風)に伴う暴風雨が原因で、航行中の「洞爺丸」が函館郊外の七重浜に座礁し転覆・沈没。他に「第十一青函丸」・「北見丸」・「十勝丸」(初代)・「日高丸」(初代)の4隻も沈没。あわせて1,430人の犠牲者を出した。いわゆる国鉄戦後五大事故の一つに数えられる洞爺丸事故である。これを機に客車航送は中止。この事故を契機に青函トンネル計画が具体化されることになった。

 

檜山丸」(初代)貨車航送船 檜山丸型が就航。

空知丸」(初代)貨車航送船 檜山丸型が就航。

 

日高丸」(初代)が復旧し、就航。

十勝丸」(初代)が復旧し、就航。

 

十和田丸」(初代)車載客船が就航。1967年

(昭和42年)5月6日、貨車航送船に改造のうえ石狩丸(2代)として就航。

 

 1等指定席を新設。自在腰掛(リクライニングシート)で座席確保が確実なため好評となる。

 

第六青函丸」が終航(同年6月10日廃止)。

津軽丸」(2代)車載客船 津軽丸型が就航。

青函航路初の自動化第1船。客船ながら、これまで

の貨車航送船よりも多い48両の貨車を積載する大

型船。運航時間も在来船の4時間30分から3時間50分

に短縮され「海の新幹線」といわれた。以後建造さ

れた客貨船はすべて津軽丸型。

函館桟橋で「津軽丸」(2代)から乗客が転落し、

死亡する事故が発生。これに伴い、「別れのテー

プ」が禁止される。

八甲田丸」が就航。

大雪丸」(初代)が終航(同年10月16日廃止)。

1964年東京オリンピックの聖火を津軽丸で輸送。陸奥

湾平舘海峡入口で北海道、青森県の聖火ランナーが洋

上で聖火を引き継ぎ。

寝台特急「はくつる」に続する3・4便に限り運航時間

を3時間50分に短縮。初めて4時間の壁を破る。

​「摩周丸」(初代)が終航(同年12月7日廃止)。

第八青函丸」が終航(同年12月14日廃止)。

松前丸」(2代)が就航。

第七青函丸」が終航(翌年1月16日廃止)。

 

大雪丸」(2代)が就航。

羊蹄丸」(初代)が終航(同年7月15日下関へ回航、同年8月12日廃止)。

摩周丸」(2代)が就航。

第十二青函丸」が終航(同年7月7日廃止)。

羊蹄丸」(2代)が就航。

渡島丸」(初代)が終航(同年9月21日廃止)。

石狩丸」(初代)が終航(同年10月18日廃止)。

旅客便の運航時間を3時間50分に統一。

 

十和田丸」(初代)が終航。車両渡船に改造の上、「石狩丸」(2代)に改称。

十和田丸」(2代)が就航。

 

十和田丸」(初代)改め「石狩丸」(2代)が就航。

同日青森発の「十和田丸」(2代)より自動車航送開始。当初は「津軽丸」型7隻の遊歩甲板後部に6台積みだったが、最終的には13台積みとされた。ただ、甲板上の露天積みであり荒天時には海水をかぶるため、後年国鉄では洗車のサービスを行った。

9月27日:室蘭本線不通のため、青森港 - 室蘭港間にて「檜山丸」(初代)・「空知丸」(初代)を使用した貨物輸送を実施。

 

日高丸」(初代)が終航(翌年2月18日廃止)。

渡島丸」(2代)貨車航送船 渡島丸型が就航。

 

十勝丸」(初代)が終航。

日高丸」(2代)貨車航送船 渡島丸型が就航。

十勝丸」(2代)貨車航送船 渡島丸型が就航。

1970年代前半には1日30往復もの運航が行われることもあったが、その後は旅客需要の航空移転や民間フェリー航路の整備に伴い、客貨ともに輸送量が急激に減少した(最盛期は1973年(昭和48年)の約498万人)。

 

函館本線・室蘭本線土砂崩れで不通のため、函館港 - 室蘭港間で連絡船による列車代行を実施。「摩周丸」(2代)・「十和田丸」(2代)が就航し、上下あわせて約15,000人を輸送。

 

空知丸」(初代)が終航。

空知丸」(2代)貨車航送船 渡島丸型が就航。

檜山丸」(初代)が終航。

檜山丸」(2代)貨車航送船 渡島丸型が就航。

 

石狩丸」(2代)が終航。

石狩丸」(3代)貨車航送船 渡島丸型が就航。

 

渡島丸」(2代)が休航。

 

「マリーンガール」登場。以降夏の観光シーズンに観光案内等乗客のサービスにあたる。

日高丸」(2代)が休航係船。

 

津軽丸」(2代)の終航に伴い、休航係船中の「日高丸」(2代)が運航再開。

石狩丸」(3代)を車載客船に改造し、再就航。

檜山丸」(2代)を車載客船に改造し、再就航。

松前丸」(2代)が終航。

 

日高丸」(2代)・「十勝丸」(2代)が終航係船。

摩周丸、航海中に火災が発生し、乗組員3名が死亡する。

石狩丸」(3代)・「檜山丸」(2代)による二輪車・自転車航送開始。

 

70万キロ航海達成(羊蹄丸)。

 

函館駅の桟橋乗降口を閉鎖。

臨時雇用員乗船開始。

国鉄分割民営化に伴い、北海道旅客鉄道(JR北海道)函館支店に承継。同時に船籍が東京から函館に移る。

1988年(昭和63年)

大雪丸」(2代)が終航。有川第3岸壁に係船。

1964年(昭和39年)以来、四半世紀ぶりに「別れのテープ」の使用を解禁。

空知丸」(2代)が終航。有川第4岸壁に係船。

青函トンネルを含む海峡線(津軽海峡線)の開業に伴い、鉄道連絡船としての使命を終え、同日限りで運航を終了。最終は函館発が「羊蹄丸」(2代)、青森発が「八甲田丸」。3月13日のみ青函トンネルと青函連絡船の両方が営業を行った。

摩周丸」(2代)・「十和田丸」(2代)・「石狩丸」(3代)・「八甲田丸」・「羊蹄丸」(2代)が終航。「摩周丸」(2代)・「八甲田丸」・「羊蹄丸」(2代)はドック岸壁、「十和田丸」(2代)は函館第1岸壁、、「石狩丸」(3代)は函館第2岸壁にそれぞれ係船。

暫定(復活)運航を開始。使用船は「羊蹄丸」(2代)・「十和田丸」(2代)。

暫定運航を終了。

暫定運行に使用されていた「十和田丸」(2代)が函館に回航されたのを最後に、青函連絡船は津軽海峡から完全に消えた。また、青函連絡船が正式に廃止され、名実共に80年の歴史に幕を閉じる。

津軽丸型連絡船の津軽丸(二代目)

日本初の車載客船「翔鳳丸」(1924年就航)

青函航路初のディーゼル船である初代「檜山丸」

(1955年就航)

十勝丸(初代)3月28日

比羅夫丸(青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸)

車運丸

青函連絡船の船舶史

「摩周丸」(初代)

函館市青函連絡船記念館

八甲田丸

洞爺丸

昭和23年
景福丸
Yankee Limited
特殊列車

 さて、おやじが撮った船の写真の特徴は、丸窓が二個ずつ並んでいる。その上に通路がある。救命ボートの奥の煙突に「工マーク」がある。さらに左端にも煙突の一部が写っている。これらを考慮して探してみると、まず「最後の青函連絡船『羊蹄丸』」の動画に写っている連絡船を見つけました。

 さらに調べてみると、三菱重工神戸造船所にて、車載客船洞爺丸型シリーズが昭和22年11月21日に「洞爺丸」を就航し、昭和23年に「摩周丸(初代)」「大雪丸(初代)」「羊蹄丸(初代)」が就航しています。

 いわゆる姉妹船や同型船と呼ばれるものですが、窓の形を見ると洞爺丸だけが四角のようです。恐らくおやじが撮った船舶は、残りの3隻の内のどれかという事になるでしょう。

最後の青函連絡船『羊蹄丸』

羊蹄丸、大雪丸

↑ 羊蹄丸

↑ 大雪丸

↓ 洞爺丸

↓ 摩周丸

昭和23年

思い出の国鉄(青函連絡航路)

←左の写真は、函館市青函連絡船記念館「摩周丸」の3階にある(旧グリーン船室)「船のしくみ展示室」に展示中の摩周丸(初代)のモデルです。

 羊蹄丸型の羊蹄丸、大雪丸、摩周丸のどれかのこの部分を別角度で撮ったのでしょう。

 きっと函館か青森桟橋から4本の煙突の後方を撮ったのだと思われます。

参考資料:青函連絡船

    :山田君の世界 青函連絡船

    :函館市青函連絡船記念館「摩周丸」

    :青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

    :函館市青函連絡船記念館摩周丸

    :蒸気タービン

    :比羅夫丸

    :車運丸

    :津軽丸 (2代)

    :松前丸 (2代)

    :翔鳳丸

    :第一青函丸

    :第五青函丸 W型戦時標準船建造までの経緯

    :戦時標準船

    :洞爺丸台風

    :新羅丸

    :亜庭丸

    :景福丸

    :北見丸

    :洞爺丸 洞爺丸型

    :羊蹄丸 (初代)

    :徳寿丸

    :檜山丸 (初代)

    :十和田丸 (初代)    :

    :渡島丸 (2代) 渡島丸型    :

 

青函トンネル工事の記録

 戦後70年たってもアメリカの56%が日本への原爆投下を正しいと言っている。教育の結果か。

 もう立って歩けない国に、原爆を投下する必要があったとは思えませんね。理由があるとすれば、それ以外です。どうやら米国は米軍兵の命を守ったと思っている。そしてソ連への抑止力増強。もう一つは実験投下だったと思われます。

 

ヒロシマ 9万~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡。

ナガサキ 約7万4千人が死亡。

赤道直下

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